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日航機「よど号」ハイジャック事件

 2017/01/19 団塊の世代一代記
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1970年3月31日午前7時40分(昭和45)、富士山南側上空で日本初のハイジャック事件が起きた。過激派(赤軍派)学生9名による羽田発福岡行き日航機351便(よど号)乗っ取り事件である。北朝鮮に渡った犯人たちは金体制の中で日本人拉致にも関与している疑いが非常に強い。

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金総書記、拉致認め謝罪

2002年9月17日(火)日朝首脳会談(小泉純一郎首相、金正日総書記)が平壌(ピョンヤン)で開かれた。席上、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金総書記は拉致疑惑について自国の関与を認め謝罪した。その際に長年にわたって行方不明とされてきた被害者の安否が明らかにされたが、その内容は実に驚くべきものであった。

警察庁認定8件、11人(拉致場所は日本国内10人、欧州1人)の内

死亡6名、生存4名、不明1名

死亡者の中には、最年少(中学1年生)で拉致された女性(その娘が生存しているという)や、よど号ハイジャック犯の元妻が関与して欧州で拉致したとされる女性が含まれている。不明者1名については、北朝鮮へ入国した事実は確認できない、としている。拉致後、北朝鮮へ連行中に船内で亡くなった可能性も示唆されている。なお、生存者4名は、男女ペアで拉致された3組のうちの2組である。

未認定2人(拉致場所は欧州2人)の内

死亡2名

よど号グループが関与した疑いの持たれている男性たちである。

その他1人の内

生存1名(氏名不祥)

政府でも全く把握していなかった人物だという。もしかして、拉致されたのは上記の方々以外にも存在するのではないだろうか。

さて、拉致され既に死亡したとされる8人の死亡日が相手国側から伝えられた。それによると、拉致当時(1977年~1983年)多くの人が20才台だったにもかかわらず、拉致後数年にして20~30代で亡くなっている。中には共に行動していたとみられる男女が同じ日に死亡したケースもあるという。異常というほかはない。日本政府は拉致事件の全容を解明して国民の前に示す責任がある。

有本さん拉致、北朝鮮外交官と工作「よど号」元妻証言

(読売新聞)[2002年3月13日2時4分更新]

2002年(平成14年)3月12日
日航機「よど号」を乗っ取って北朝鮮に渡った元赤軍派メンバー(48)の元妻、八尾恵(やおめぐみ)証人(46)が、12日に東京地裁で開かれた赤木恵美子被告(46)(旅券法違反などの罪)の公判に、検察側証人として出廷し、英国留学中の1983年に行方不明となった有本恵子さん(当時23歳)拉致(らち)事件について、「よど号メンバーらが日本で革命を起こすための人材獲得が目的だった。リーダーの田宮高麿幹部(故人)らから指示を受けて工作にかかわった」と自らの関与を認め、朝鮮労働党員の外交官の関与について詳しく証言した。

なお、赤木恵美子被告は昨年日本に帰国逮捕された。

「よど号」ハイジャック犯の娘三人が日本に一時帰国

2001年(平成13年)5月15日
田中義三の長女、小西隆裕の長女、故田宮高麿の長女
彼女たち3人はピョンヤンでいつも三人いっしょに行動しているらしい
党主催の各種式典では貴賓席に座るなど特別の待遇を受けているという

よど号事件妻子5人帰国手続きへ

センター事務局長明かす(毎日新聞)
2000年10月24日(火)22時35分、Yahooニュース

1970年のよど号乗っ取り事件で、北朝鮮に渡った元赤軍派メンバーの妻子5人が年内の帰国実現に向け、日本政府に手続き開始を求めていることが24日、分かった。帰国支援活動を続けている「救援連絡センター」の山中幸男事務局長が平壌からの帰途、北京空港で記者団に明らかにした。[毎日新聞 10月24日]

ノーベル平和賞に韓国の金大中大統領(ロイター)

2000年10月13日、Yahooニュース
[オスロ 13日 ロイター] ノーベル平和賞の受賞者に、韓国の金大中・現大統領が決まった。同国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との関係を改善し、冷戦の最後の引火点を融和した功績が認められた、という。

北朝鮮、「よど号」容疑者を追放の用意 米に言及

2000年10月9日09:16、asahi.com

米と北朝鮮 反テロ共同声明

2000年10月6日夕方(日本時間7日朝)、米国務省は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で国際テロに反対する共同声明に合意したと発表した。

北朝鮮は、これまで米国にテロ支援国家指定の早期解除を要求。これに対し、米側は日航機乗っ取り事件(よど号事件)で北朝鮮に亡命した日本の元赤軍派グループの国外追放や日本人拉致(らち)疑惑解明などを解除の条件としていた。米政府当局者は、これらの条件は共同声明の三項目に含まれているとしている。 (西日本新聞)

シドニーオリンピック

2000年9月15日(金)、シドニーオリンピック開会式において、南北朝鮮の選手団は、白地に青で国境線のない朝鮮半島を描いた「統一旗」のもと、いっしょになって入場行進を行った。その後の各種競技会場においても、”統一朝鮮の歌”が高らかに歌われ、南北の区別なくお互いを応援するシーンが随所で見られたという。南北朝鮮統一への民族の熱き思いが見てとれる光景である。

大阪万博、日本初のハイジャック事件発生

今からちょうど30年余り前、1970年3月末、大学を卒業したばかりの私は大阪万博会場のすぐ近く千里丘陵にあった伯父(母方)の家に寄留していた。薬剤師国家試験(4月初め)を受ける為で、大阪で受験してそのまま6日の入社式(本社、大阪・道修町)にのぞもうとしていた。

「よど号」ハイジャック事件が起きたのはちょうどその時であった。

注:事件経過の時刻に関しては資料によって多少の誤差がみられる。以下では、島田滋敏著「よど号」事件 三十年目の真実-日航対策本部事務局長の回想-、草思社(2002年)を採用した。

島田滋敏さんは、韓国・金浦空港に設置された日航現地対策本部の事務局長として、機内の犯人とコントロール・タワーとの交信を一貫してモニターしていた。すなわち、犯人と日韓両国政府の交渉の全容を知る立場にあった、ほとんど唯一の人物といえる。

「よど号」乗っ取られる(1970年)

3月31日、日本初のハイジャック発生

午前7時21分、7時10分羽田発福岡行きJAL351便、離陸
日本航空国内線、ボーイング727型ジェット旅客機、JA8315、通称「よど号」(定刻の10分余り遅れ)、コックピット・クルー3名(石田真二機長、江崎悌一副操縦士、相原航空機関士)、スチュワーデス4名、乗客131名(ハイジャック犯を含む)

午前7時40分、富士山南側上空でハイジャック発生
犯人は過激派(赤軍派)学生9名で北朝鮮行きを指示。しかし、彼らと北朝鮮との間に何らかの連絡がついていた訳ではなかった。相手側が受け入れてくれるかどうかは彼らにもまったくわからなかった。

午前8時59分、福岡・板付空港着陸(定刻の14分遅れ)
給油を遅らせるなどして時間稼ぎをするが、有効な解決策なし
午後1時40分老人子供と一部の女性(付き添いの親のみ)23人解放

午後1時59分、福岡空港を<突然>離陸、北朝鮮をめざす
ナビゲーション・ルート(飛行経路)不明
エアポート・インフォメーション(ピョンヤン空港に関する情報)なし
機長にあらかじめ届けられていた北朝鮮の地図は、中学生用の学習地図帳の朝鮮半島部分を破りとったもののみであった。

午後3時13分、韓国・金浦空港に<偽装>着陸
韓国側は、首都ソウルの玄関口である金浦空港を平壌の空港に偽装した。その上で、戦闘機2機(国籍不明機、実は韓国空軍機)が”よど号”にスクランブルをかけ、偽の管制誘導によって金浦空港に強制着陸させた。

北朝鮮と日本は国交がない。その北朝鮮の了解もなしに、日本の飛行機が北朝鮮へ飛んでゆけば撃墜される可能性が高い。偽装着陸は、日本側の憂慮に米韓が同調した連係プレー の結果であろう。

なお、米国側にも深い事情があったようだ。乗客の中に米国人が二人含まれており、その内の一人はCIA関係者であったというのだ。北朝鮮に連れて行かれたらとんでもないことになってしまう。(後段、ピョンヤンへ飛び立つまでの経緯、参照)

さて着陸後20分くらいして、ハイジャック犯たちはそこが北朝鮮ではなく、韓国であることに気づいた。アメリカ車が走り回り、ラジオからはジャズが流れていた。NWノースウェスト機が空港の端に一機取り残されていた。偽装工作は完璧ではなかった。犯人は”米軍機も見た”と後に語っている。金浦空港の隣の米軍基地に駐機中のものだったのだろうか。

いずれにせよ、彼らは態度を硬化させ、以後長い膠着状態に入る。その間に、バッテリー切れで機内温度は40度にも達し、トイレのタンクが一杯になって臭気が漂い始めた。乗客のがまんは限度を越えていた。

福岡に集まった乗客の家族や一般市民からは、即時解決のため(人質を乗せたまま)”よど号”を直ちに平壌(ピョンヤン)へ行かせるべし、との声が高まる。

4月2日、北朝鮮受け入れの意思表示

午前3時20分、北朝鮮赤十字社の公式声明(3つの確約)
航空の安全保障、乗員の人道的処遇、機体返還
これにより北朝鮮へ飛ぶ条件は整い、人質解放交渉にはずみがつく。

4月3日、北朝鮮へ

午後6時05分、北朝鮮に向けて飛び立つ
これに先立ち、乗客99名、スチュワーデス4名を全て解放。この中には、高名な医師など医療関係者約10名や20歳台の若い男女18名が含まれていた。身代わりの人質として山村新治郎運輸政務次官がただ一人乗りこむ。ただし、コックピット・クルー3名(機長、副操縦士、航空機関士)の交代は認められなかった。

こうして「よど号」は飛び立った。安全飛行のために必要不可欠な情報である、ウェザー・データ(気象情報)もオペレーショナル・データ(運航情報)も全く与えられなかった。夕闇が迫る中での完全な有視界飛行である。時間がなかった。

金浦空港を離陸した後、まっすぐ東に飛んで一旦日本海に出て、それから北上する。そして北緯39度線上に沿って西に飛べばピョンヤンが見えてくるだろう。飛行距離約760km、飛行時間1時間余りか。

石田機長は、戦時中に特攻隊の教官として朝鮮半島にいたことがある。ところが、ピョンヤンのことはまったく知らなかったらしい。はたしてうまく飛べるのか。

午後7時15分、平壌(ピョンヤン)・美林空港着
平壌(ピョンヤン)管制塔からの応答はまったくなかった。そして、ピョンヤン・順安飛行場を見つけることはできなかった。しかたなく途中で見つけた小さな飛行場に着陸することにした。ほとんど視界ゼロに近く暗くなった中で、明かりのまったくない暗闇の空港へ決死の着陸が成功した。

旧日本軍の美林飛行場跡地。地面に四角いコンクリートを並べただけのおよそ滑走路とはいえない代物であった。(石田機長後日談)

4月4日、一日休息

4月5日、羽田帰還

午前9時10分、機長以下3名のコックピット・クルーと山村代議士は犯人を残して機体とともに羽田到着。3月31日に羽田を飛び立ってから122時間経過していた。

ピョンヤンへ飛び立つまでの経緯

福岡での約5時間にわたる引き延ばし工作、および韓国・金浦空港への偽装着陸の影には米国の思惑が見え隠れしている。米国人乗客2名の内1名がCIA関係者であった可能性が高いのである。北朝鮮に身柄を引き渡すことは絶対に許されないことであった。

一方、はからずも当事国となった韓国では、朴正照大統領が陣頭に立って事に当たった。当然のことながら、南北朝鮮の政治的対立を踏まえた対応が求められる。さらに、韓国では、前年12月に大韓航空のYS-11がハイジャックされ、乗客・乗員11名が北に抑留されたままになっている、という状況もあった。 北朝鮮に対する評価は日本の当局よりもはるかに厳しいものであった。

人道的立場から、出来るだけ早くピョンヤンに飛ばせて、そこで解決すればよいとする日本政府(世論)の立場は容認しがたい。最初から最後まで、絶対に韓国内で解決(人質解放)するという強い意思表示が貫かれた。人質を北にやれば、医師等の医療関係者(約10名)や若い男女(二十歳代18名)を中心として、その内の何人かは戻ってこれない可能性が高いと判断していたのだ。

北朝鮮は、いったんは乗客・乗員の安全を約束していた。しかし、条件が変わった(乗客は山村次官と犯人達のみとなった)として、「航空機の航行の安全と乗客・乗員の安全は保証しない 」と態度を変えていた。それにもかかわらず、日本国政府は「よど号」を北朝鮮に向けて飛び立たせてしまった。

「よど号」は、国際遭難通信用周波数121.5メガサイクルで航行援助を求め続けた。船舶等のSOSに相当するものだ。しかし、北朝鮮は沈黙し続けた。国際航空界の常識 では考えられない行為である。結局のところ、北朝鮮がほんとうに欲しかったのは100名近い乗客だった、ということだろう。

北朝鮮当局の見解として、もし飛行誘導を行えば、「よど号」を受け入れたことになるので最初から 誘導するつもりはなかった。「よど号」はあくまで不法侵入者として取り扱う、というものであったという。(石田機長談)

さて、韓国・金浦空港で解放された乗客と乗務員(スチュワーデス)4名は、特別機「飛騨号」で、4月3日午後8時25分福岡に無事帰ってきた。ところが乗客の数が1名不足していた。(解放された乗客は全部で99名)

米国人乗客二名のうちの問題の一名が、解放直後、金浦空港から姿を消したのだ。戒厳令下の空港をすり抜けたということになる。米韓当局によって極秘に処理された結果のようだ。彼は、事件解決の5日後東京に戻り、3年後本国帰国、その直後に神父をやめ 、以後消息不明という。

「よど号」メンバーのその後

ハイジャック「事件」は、こうして一人の死傷者を出すこともなく解決した。しかしこれは、「よど号」メンバーにとっては長い漂流の旅の始まりにすぎなかった。そしてその旅は30年後の現在もまだ終わっていない。

犯人たちは北朝鮮側から一種のヒーローとして迎え入れられた。腐敗した資本主義社会日本から脱出して金日成(社会主義朝鮮)の懐に飛びこんだ”金の卵”として厚遇されたのである。着の身着のままだった彼らに対して、生活に必要なものはすべて朝鮮労働党から支給された。そして宿舎として平壌(ピョンヤン)郊外の党招待所があてがわれた。

しかし、北の闇の中に消えた「よど号」メンバーの消息が日本まで届くことはほとんどなかった。彼らはおそらく政治犯収容所のような場所に幽閉されつづけていると考えられていた。彼らの北朝鮮<国内外>での活動内容についておぼろげながら伝わってくるようになったのは1990年代に入ってからであり、すでに事件発生から20年がたっていた。

例えば、「よど号」グループの<妻>たちの存在が初めて明らかになったのは、1992年4月、80歳を目前にした金日成のインタビューによってであった(朝日新聞政治面掲載)。それまでは、メンバー全員が結婚していること、しかも相手の女性はすべて日本人で子供までいることなど想像だにされなかった。

現在の「よど号」グループは、彼らと妻子(子供の数は20名)、それに事件後ピョンヤンで合流した人物(男性)やグループ員の妹が加わって構成されているらしい。

主体(チュチェ)思想

ピョンヤンに着いてからの彼らの生活は、ひたすら主体(チュチェ)思想を叩きこまれる毎日であった。北朝鮮側から受ける破格の待遇に対する「義理」、軽井沢「あさま山荘」事件や連合赤軍事件(総括という名の粛清)とそれに伴う国内赤軍派の壊滅は彼らの思想に微妙な変化をもたらした。

1972年5月6日、金日成が彼らの宿舎を訪問(謁見)、この時を境に「よど号」グループは朝鮮労働党の忠実な”チュチェの戦士”として生まれ変わった。そして彼らは、金正日を担当最高責任者とする特別な存在として権力中枢と直接結びつけられた。

日本人革命村

彼らの暮らす招待所はピョンヤン郊外にある。関係者から日本人革命村とよばれているこの一角は周辺の農村から隔離されており、北朝鮮で市販されているどんな地図にも記載されていない。

村には彼らが日本式生活を満喫するための施設・設備が完備している。それらを維持するために多くの労働者が働いている。専属の料理人が数名いる。食堂での給仕、洗濯、掃除などをする若い女性が配置されているなど、さながら小さな宮廷といったところである。

花嫁獲得作戦

村の最初の花嫁は1975年10月19日に日本を出国、いくつかの国を経ておそらく東欧の朝鮮大使館経由で入国した。メンバーの一人とハイジャック直前まで恋人関係にあった女性で、彼からまったく連絡がないのに業を煮やして自ら行動を起こした結果であった。

これをきっかけに、残りのメンバー全員の花嫁が<日本から>連れてこられることになり、朝鮮労働党によって実行に移された。そして、1977年5月初めに次々と結婚式を挙げた。(1976年中に結婚したものもいるらしい)

5月1日、田宮高麿
5月3日、赤木志郎
5月4日、柴田泰弘
5月5日、田中義三、など

花嫁たちの中には、日本にいるときからチュチェ研などでチュチェ思想と金日成主義の洗礼を受けていたものが多い。しかし、ハイジャック犯と結婚することが目的で北朝鮮に渡ったものはいない。北朝鮮に渡った後、「領導芸術」という洗脳(マインド・コントロール)を受け、結婚を余儀なくされていったものと思われる。

妻達の中には、北朝鮮の思想とは関係なく、拉致に近い形で連れてこられた者も2名いる。いわゆる「日本人拉致疑惑」が起こった時期と重なってはいるが、彼女達の存在は1990年代半ば以降までまったく明かにされることはなかった。

「よど号」メンバーによる秘密工作

彼らは1975年頃から海外へ出はじめた。当然のことながら偽造旅券や時には外交官旅券を使用したのであろう。各国の北朝鮮大使館を宿泊場所とし、北朝鮮外交官や工作員と行動をともにすることも多かった。特に北欧においては、外交官特権を利用した違法な経済活動の一端を担わされていた可能性が高い。

結婚して最初の子供ができたころ、いよいよ軍事訓練が始まった。指導教官は人民軍から派遣され、ゲリラ戦士として徹底的に鍛え上げられた。1979年末から翌年の春にかけて、彼らのうち数名の男女が海外(ヨーロッパ)へ出かけていった。

マドリッド(スペイン)は彼らの重要な工作拠点の一つでほぼ10年間維持された。そして、数名の日本人学生(旅行者や留学生)拉致の活動舞台となった。対象となったのは、日本政府が認定している拉致7件10人とは全く別の人たちである。

しかし、こうした北朝鮮側(外交官や工作員)の活動は西側組織によって徹底的にマークされ、おびただしい量の証拠写真が撮られた。そして、そこには「よど号」メンバーはもちろんのこと妻達もいっしょに写っていた。

こうした資料を日本の公安当局が受け取ったのは、ソウル・オリンピック(1988年)開催前頃である。写真鑑定の結果、「よど号」メンバーが確かに写っていることを確認したにも関わらず、何ら行動を起こすことなく資料はどこかに仕舞い込まれてしまった。

ただし、<妻たち>に対しては旅券返納命令が出された(1988年8月6日付け官報)。しかしその理由は、北朝鮮工作員と接触する危険人物としてであり、この時点で彼女たちがよど号グループの妻であることまでは分かっていなかった。

妻たちは、1980年代前半から1988年5月末ころまで頻繁に日本に一時帰国をしている。おそらくメンバーの日本帰国の下準備のためであったろう。ところで、旅券は本人が所持する正真正銘のものであった。なぜならば、彼女たちに旅券返納命令が出されたのは1988年8月であり、それまでに全員が2回更新をすませていた。

1989年11月9日「ベルリンの壁崩壊」に象徴される東西緊張緩和に続く激動の中で、北朝鮮はヨーロッパにおける拠点を次々と失っていった。すでに日本からの撤収を余儀なくされていた「よど号」グループは、活動の主体を北朝鮮国内からの対日工作に切り替えざるを得なくなっている。

ハイジャック事件メンバー、その他関係者

田宮高麿(当時、27歳)リーダー、赤軍派軍事委員長
1995年11月30日未明、ピョンヤンの自宅で急死(心疾患)。

小西隆裕(同、25歳)サブ・リーダー格、東大全共闘
妻とは事件発生以前から恋人関係。

岡本武(同、24歳)京大、東大安田講堂(1969年1月18、19日)経験者
思想的対立により妻といっしょにグループから引き離される(1982~3年頃)。夫妻死亡説が新聞に出たこともあるがほんとうのところは不明である。

妻は1976年7月に失踪(拉致されて)した高知県出身の日本人女性であるという事実がつい最近明らかとなった(1996年8月7日、朝日新聞)。彼女は1980年春日本に一時帰国している。グループの日本潜入計画(岡本武が候補)を何らかの形で手助けするためであったのだろう。

赤木志郎(同、22歳)東大安田講堂 経験者
 妻恵美子2001年日本帰国逮捕、旅券法違反などの罪で公判中
若林盛亮(同、23歳)東大安田講堂 経験者
阿部公博(同、22歳)東大安田講堂 経験者

田中義三(同、21歳)
1996年3月、偽ドル関与疑惑によりカンボジアで逮捕。身柄を拘束された時、彼は北朝鮮大使館の公用車で大使館員2人と同行中であった。逮捕後タイに連行され四年あまりの獄中生活を送る。無罪判決を得て日本帰国、収監そして裁判中。妻子はピョンヤン在住。

吉田金太郎(同、20歳)
1985年に病死と伝えられているが、1977年5月初めの合同結婚式で彼も妻を迎えたという証拠は無い。当時すでにメンバーから離れていたか、あるいは死亡していたか? 粛清説もある。

柴田泰弘(同、16歳)
1985年春、日本潜入。1988年5月6日、兵庫県警外事課に逮捕される。続いて5月25日、彼の妻が神奈川県警外事課に逮捕された。妻逮捕のきっかけは<密告>電話によるものであり、その直後、何人かの北朝鮮関係者(よど号日本人妻も含む)があわただしく日本を出国した。

彼の妻八尾恵(やおめぐみ、兵庫県出身)は、北朝鮮について「行けるものなら行ってみたい」という漠然とした期待感をもっていた。そのとき、朝鮮総連系の学生活動家と知り合い、紹介された人物によって北朝鮮行きが実現する。

1977年2月24日、大阪・伊丹空港から香港に向けて出国、さらにジェット船に乗って同日中にマカオの指定されたホテルに入る。翌日北朝鮮側の担当者と会い数日を過ごす。この間に出来あがった北朝鮮公民のパスポートを持って出入国専用バスで国境を渡り中国に入る。車を乗り換えて飛行場に行き翌日北京に飛ぶ。北京飯店に一泊、翌朝北京空港から北朝鮮に飛び、平壌・順安空港に降り立つ。日付は3月1日になっていた。

マカオからは常に担当者が付き添う。泊まるホテルはその土地一番の高級ホテル、豪華な食事に貸切タクシーでの市内観光付きであった。ピョンアンの招待所でもいたせり尽くせりで面倒を見てもらい、「よど号」メンバーとの結婚を勧められ断り切れなくなってしまった。彼女はメンバーの男性と強制的に”結婚”させるために計画的に連れて行かれたのだ。

子供2人を生んで1984年、7年ぶりに日本に潜入帰国、横須賀でカフェ・バーを開いて半年後に逮捕される。しかし結局,罪状は公正証書原本不実記載(住民票への偽名登録)のみで罰金刑確定。

彼女自身が「よど号」グループの日本人妻の一人であることを告白したのは1992年になってからである。1992年4月の金日成による「よど号」妻子問題公表後、悩み続けた末出した結論であった。そして1997年、北朝鮮に残してきた子供2人(女児)に日本国籍が与えられた。

2002年(平成14年)3月12日に開かれた赤木恵美子被告(46)(旅券法違反などの罪、2001年日本帰国逮捕)の公判で英国留学中の女性拉致(らち)事件について詳しく証言した。

(塩見孝也)元赤軍派議長
よど号事件のリーダーとなるはずだったが直前に別の事件で逮捕された。
19年9ヶ月の刑期を終えて出所。後にピョンヤンにて田宮たちと再会。

(山村新治郎)衆議院議員
1992年4月13日未明、<次女>に自宅で包丁にて刺し殺される。
自民党<訪朝団>の団長としてまさに出発する当日のことであった。訪朝団の目的は金日成主席80周年の慶祝行事参加であったが、もう一つの目的は「よど号」グループとの再会にあった。山村も田宮もそれを心待ちにしていたという。

よど号事件当時、”身代わり人質”として一躍有名になった父親を羽田空港に出迎えたのは、ほかならぬ彼女である。彼女の人生にとっても「よど号」事件は言うに言えぬ深い影を落としていたのであろう。そして「よど号」メンバーにとっては、日本政府とのささやかな繋がりを完全に立ち切られた事件となった。

参考資料

〇『宿命』「よど号」亡命者たちの秘密工作、高沢皓司著、新潮社1998年
〇「よど号」事件 三十年目の真実、-日航対策本部事務局長の回想-
島田滋敏著、草思社2002年
〇週間新潮2001.08.16-23号、私はよど号犯「柴田」と強制結婚させられた
〇謝罪します、八尾恵著、文藝春秋社2002年
「かりの会」帰国支援センター

2005/01/09
韓国・金浦空港偽装着陸の謎、加筆訂正
2002/09/19
日朝首脳会談、追加
2000/10/02初出

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