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神風特攻隊(特別攻撃隊)とは

 2016/12/30 団塊の世代一代記
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神風特攻隊(特別攻撃隊)とは

神風特攻隊(しんぷうと読む)とは、太平洋戦争末期に飛行機ごと体当たり攻撃を行って、敵機動部隊を殲滅することを目的として編成された特別攻撃隊のことをいう。軍事作戦とは本来、敵を倒して自らは生きて帰ることを前提としたものであるはずである。神風特攻隊編成の真意はどこにあったのであろうか。

「特攻は統率の外道である」。神風特攻隊の発案実行者とされる大西瀧治郎中将(第一航空艦隊司令長官)自身の言葉である。「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」。大西中将は敗戦翌日割腹自殺して果てた。介錯も受けず10時間もの間もがき苦しんだという。

ここで、純粋に国を思い散華した数多くの御霊に対して、心より哀悼の意を表するものである。

「「特攻」と日本人」保阪正康著、講談社現代新書(2005年)

特攻隊員が自らの死をもってわれわれに訴えかけているものは何か。新しい特攻論の必要性を訴える著者のスタンスに全面的に賛成である。

涙なくしては読めない(アマゾンレビュー)

元原稿、akimasa21、2005/9/3

特攻隊員は数多くの手記や遺稿を残している。それらの一部は、例えば「きけわだつみのこえ-日本戦歿学生の手記-」青年学生平和の会刊行(1949年)に収載されている。あるいは、知覧特攻平和会館(鹿児島県)等の施設に展示されている。

多くの人々が「英霊の中の英霊」である特攻隊員の遺品に接して涙している。しかし、ただ単に涙しているだけでいいのだろうか。彼らは何故死ななければならなかったのか、”もっと理性的にこの特攻作戦やそのシステムを問い直すことこそ重要”(保阪著書P.015)な時期にきている。

特攻作戦のような、生還の可能性の全くない軍事作戦を命じた国は、いまだかつて日本国以外にはない。そして、直接命令を下した指揮官たちは、口々に”われわれもすぐに君たちのあとを継いで飛び立つ”(保阪著書P.040)といっておきながら、後に続いた者はほとんどだれもいなかった。

また、戦後生き残った最高指導者層は、(神風)特攻隊の発案実行者はあくまでも大西瀧治郎中将である、として全ての責任を彼に押し付け、自らの関与を完全に否定し続けた。

特攻隊員が手記や遺稿で訴えたかったのは、このような当時の日本における指導者層の理不尽な行為ではなかったか。あるいは、そのような体制を許したすべての国民を含む日本国国家そのものではなかったのだろうか。

最初の組織的特攻が行われた昭和19年(1944年)10月当時、戦局はすでに決し、日本が勝つ見込みはまったくなくなっていた。したがって、終戦にむけた手続きを模索する以外に取るべき選択肢はなかったといえよう。

それにもかかわらず、戦略・戦術もなく精神論ばかりに傾いて戦争を続行した。そして遂に、いかに戦時とはいえ絶対に行ってはならない特攻作戦を実行してしまった。国民もまたそのような風潮に対して、声をあげて反対することはほとんどなかった。

特攻隊員はその役目を引き受けなければよかったのだ、という声もまた多いという。しかし、当時の日本国の状況の中で、それを拒否することはできなかったはずである。全員が志願だったかといえば、”限りなく指名に近い強制が働いた”ということだろう。拒否すれば非国民とされ、場合によっては累は家族にまでおよぶ危険もあっただろう。

若い彼らには夢があった。やりたいことがたくさんあった。生きていたかった。深い苦悩を抱えて、特攻隊員たちは飛び立っていった。

彼らが自らの死をもってわれわれに訴えているのは、「(彼らの)死を生み出した時代を心底から清算しなければならないという覚悟である」(保阪著書P.075)。そのような彼らの死が「犬死」であることなど断じてない。

「神風特攻の記録」金子敏夫著、光人社(2001年)

最初の組織的特攻隊はフィリピンで編成された(アマゾンレビュー)

akimasa21、2005/9/18

神風特攻隊(しんぷうと読む)とは、太平洋戦争末期(昭和19年10月20日)にフィリピンで編成された海軍による初めての組織的特別攻撃隊であった。最初選抜された隊員24名は、全員が第十期甲種飛行予科練習生(予科練、甲飛10期)出身で、すべて志願によるとされている。そしてその上に指揮官(海兵70期)1名を指名した。

この25名に加えて、後から甲飛以外の志願者12名が名乗りをあげたため、神風特攻隊は指揮官所属の「敷島隊」をはじめ9隊の編成となった。「この作戦限り」であったはずの特攻作戦はその後も継続されたため、これを第一神風特攻隊としてその後の特攻隊と区別している。

本書は、特に第一神風特攻隊について、隊の成立、変遷、あるいは出撃状況・戦果等を、生存者のくわしい聞き取りを交えてまとめたものである。中でも「敷島隊」は、4回目の出撃で初めて敵艦隊に遭遇し大戦果をあげる。爆装6機(他に直掩4機あり)で飛び立ったが、爆装1機(4回とも同行)がエンジン不調で引き返したため5機で突入している(引き返した1機は後日散華)。なお、直掩1機上空戦で撃墜の被害あり。

爆装隊員は死ぬまで何回でも出撃を繰り返した。これに対して、直掩機の任務は護衛および戦果偵察であるから、必ずしも死ぬとは限らなかった。したがって、同じ特攻死扱いでも爆装隊員と直掩要員では大きな違いがある。

ところが、両者の関係を取り違えて、氏名が入れ替わったままの諸書が出回っている。あるいは、隊員の氏名そのものの誤りを訂正していない書籍が今でも新たに出版(2005年刊)されている。本書は、特に第一神風特別攻撃隊に関して、他書籍の正確度をはかる”リトマス試験紙”として非常に有用だ。

神風特攻隊の名前は、旧日本海軍航空隊で使用された

神風特攻隊の名前は、旧日本海軍航空隊で使用されたものである。したがって、陸軍航空機による特攻作戦には、”神風”の名前は使われていない。 また、同じ海軍において飛行機以外での特攻作戦はいくつも実行されているが、同様に”神風”の名前は使われていない。例えば、震洋 (ベニヤ製モーターボート)、回天(人間魚雷)などによる特攻、戦艦大和などの水上特攻等である。

一般的には、特攻といえば飛行機によるものを思い浮かべるケースが多く、その場合、陸海軍の区別なく神風(かみかぜ)特攻隊 と広く呼び習わされているように思われる。特攻作戦によって”神風(かみかぜ)”が吹いてほしかったという国民の願望からくるものであろうか。 いずれにしても、諸外国でも「カミカゼ」といえば「死を覚悟した体当たり攻撃」をさすということである。

山本五十六連合艦隊司令長官は、日米開戦の三か月前、近衛文麿首相に問われて海軍の見とおしを答えている。「是非やれと いわれれば、始め半年か一年の間はずいぶん暴れて御覧にいれる。しかしながら、二年三年となればまったく確信は持てぬ」

実はこれには続きがあって、「三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います」というのだが、「暴れてごらんにいれます」とは、”勝てる”とも”負ける”ともどちらともつかない、いかにも曖昧な物言いである。

それはともかく、山本長官の予想通り、ハワイ真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争緒戦の華々しい戦果は長くは続かなかった。米軍は圧倒的物量を背景に、太平洋各地に展開していた日本軍を本土へ追い詰め始めた。こうした中で神風特攻隊が編成された。

飛行機による特攻作戦で出撃した人数は5000人前後(陸海軍)と思われるが、当Web管理人は未だその全容をつかんではいない。

真珠湾における特殊潜航艇による特別攻撃が原型となっている

ハワイ真珠湾攻撃(5隻)
昭和16年(1941年)12月8日未明(日本時間)、日本海軍の戦闘機、雷撃機、爆撃機からなる200機近い大編隊がハワイ真珠湾を襲った。こうして太平洋戦争が始まった。

空からの攻撃に加えて、海からは特殊潜航艇5隻(二人乗り、魚雷2本搭載)が真珠湾突入を試みた。しかしながら、10名中9名が戦死(1名捕虜)、大本営は戦死した9名を「九軍神」(写真氏名公表)として崇めた。ただし、太平洋戦争捕虜第1号となった生存者の存在は敗戦に至るまで完全に抹殺した。攻撃に参加した事実すら発表しなかったのである。

この真珠湾攻撃隊のことを第一特別攻撃隊と称する。そして、その後第二次特別攻撃隊(昭和17年5月31日)がマダガスカル(2艇、4名戦死)とシドニー湾(3艇、6名戦死)にそれぞれ出撃した。

オーストラリア・シドニー湾攻撃(3艇)
第二次特別攻撃隊(昭和17年5月31日)
シドニー湾攻撃(3艇)では、湾口の防潜網に絡まり航行不能となって自沈(1艇)、魚雷2本発射、目標の米国重巡洋艦シカゴには命中しなかったが、余波で軍用フェリー・クタバルを撃沈 (水兵19名死亡)して、その後行方不明(1艇)、発射管を損傷して魚雷の発射が不可能となり乗員は拳銃で自決(1艇)という結果であった。

オーストラリア海軍は2艇を引き上げ、日本海軍軍人の勇気に対して海軍葬の礼で弔った。その模様はラジオでオーストラリア全土に放送されたという。4人の棺は日本国旗で覆われ火葬に付された。そして遺骨は戦時交換船で日本に返還された。

引き上げたられた2艇の特殊潜航艇は、切断して1艇に修復復元され今もオーストラリア戦争記念館(キャンベラ)に保存されている。なお、シドニーの海軍基地は、このとき沈没した船にちなんで、HMAS Kuttabul基地と呼ばれている。

マダガスカルのディゴアレス湾攻撃(2艇)
第二次特別攻撃隊(昭和17年5月31日)
マダガスカルのディゴアレス湾攻撃(2艇)では、イギリス戦艦1隻、タンカー1隻を撃沈した。当時のイギリス首相チャーチルは、戦後執筆した「第2次大戦回顧録」(ノーベル文学賞受賞、1953年)の中で、”祖国のために貢献した行為”として賞賛している。

第一次、第二次特別攻撃隊に引き続いて、太平洋の各地で敗戦の年まで散発的に特殊潜航艇による出撃が繰り返し行われたようである(9回出撃、総数42艇)。

特殊潜航艇による第一次および第二次特別攻撃(合計20名出撃)は、生きて帰ることを前提に許可された作戦といわれている。しかし、生存者は真珠湾で捕虜第1号となった乗組員以外にない。その後の特別攻撃がどのようなものであったか定かではないが、第一次、第二次における異常に高い死亡率を考えるとき、これらは後の神風特攻隊の原型になったといえるであろう。

神風特攻隊(第一神風特別攻撃隊)

昭和19年10月17日、米軍がスルアン島(フィリピン)に上陸、翌18日17時日本軍はフィリピン防衛の為に「捷一号作戦」を発動する。神風特攻はこの作戦を成功させるために大西瀧治郎中将 (海兵40期)によって考え出されたとされている。その目的は、敵機動部隊(特に空母)の活動を少しの間でも抑止しようとすることにあった。

大西中将は19日深夜、特攻隊の編成を命じた(マバラカット基地、フィリピン・ルソン島中部)。それに応じて海軍第一航空艦隊・201航空隊から24名選抜 、全員が第十期甲種飛行予科練習生(予科練、甲飛10期)出身ですべて志願によるとされている。その上で指揮官(海兵70期)を指名した。(零戦 -250kg爆弾搭載)

神風特攻隊として最初に編成されたのは、敷島隊、大和隊、朝日隊および山桜隊の4隊である。各隊の名称は、「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」(本居宣長)によっている。

各隊は、爆装(体当たり)3機、直掩(および戦果偵察)2機を標準とした。最初、実際に編成された隊が4隊であったのは、保有機が少なくこれが精一杯であった という事情によるようだ。しかし、特攻隊組織後は、志願者も増え飛行機も各地から調達できた。結局、一航艦の搭乗員で編成された特攻隊は9隊(編成表参照)に及び、これを第一神風特別攻撃隊と呼んでいる。

最初の爆装隊員25名(指揮官-海兵70期+甲10期24名) とその後の志願者12名の動向は以下の通りである。隊員の大多数は、10月21日~30日までに散華していった。

第一神風特攻隊、特攻死(32名)

海兵70期1名、甲飛10期24名中19名
予学11期、予学13期、各1名
丙4期、丙10期、丙12期、各1名
丙15期3名、丙16期1名、丙17期2名
乙13期1名

甲飛10期24名中、19名特攻死以外5名の内訳
特攻から帰投後戦死1名(10月25日)
後に艦船攻撃の後不時着,陸上戦で戦死(11月5日)
後に特攻死1名(11月12日)
後に国内の空中戦で戦死1名(20年5月28日)
敗戦時、生存1名

なお、特攻隊員の特攻死32名に加えて、
直掩機搭乗者の特攻死7名あり

第一神風特攻隊の編成表(9隊)

昭和19年10月20日命名式
最初の爆装隊員25名
(指揮官-海兵70期+甲10期24名)

敷島隊4名、ゼロ戦爆装(神風特攻隊指揮官を含む)
大和隊3名、ゼロ戦爆装
朝日隊3名、ゼロ戦爆装
山桜隊3名、ゼロ戦爆装
その他一括して菊水隊編入12名

敷島隊には、その後、丙15期、丙17期、各1名志願者追加

10月21日
大和隊再編成、ゼロ戦爆装
最初大和隊に編入された3名と一括菊水隊数名はセブ島に移動
そこで新たに特攻志願者を募り大和隊が再編成された
(予学11期、予学13期、丙4期、丙12期、丙15期、各1名志願者追加)

10月22日
菊水隊3名、ゼロ戦爆装
 (一括菊水隊から2名、大和隊から編入1名)
若桜隊4名、ゼロ戦爆装
 (一括菊水隊から2名、大和隊、朝日隊から編入各1名)
10月25日
彗星隊1機(2名)、艦爆
 (乙13期、丙10期)
10月26日
初桜隊3名、ゼロ戦爆装
 (一括菊水隊から1名、山桜隊から編入1名、丙17期1名志願者追加)
葉桜隊6名、ゼロ戦爆装
 (一括菊水隊から2名、朝日→若桜隊、敷島隊から編入各1名)
 (および、丙15期、丙16期各1名志願者追加)

第一神風特攻隊の出撃記録

10月20日、最初の出撃命令下る、ただし、悪天候のため翌日に延期
最初の出撃命令は、20日に敷島隊、大和隊、朝日隊および山桜隊の爆装13機と、それぞれの直掩機を合わせた10機の合計23機に下されたが、悪天候のため出撃は翌日に持ち越しとなった。

10月21日(マバラカット)
敷島隊4名(直掩4機あり)、初出撃
 指揮官、海兵70期
 甲10期2名
 丙15期1名志願者追加
 (その他、エンジン不調発進中止・・・甲10期1名)
朝日隊3名(直掩2機あり)、同時に初出撃(合同作戦)
 甲10期3名

予定地点に至るが天候不良のため敵発見できず
ルソン島南部レガスピー不時着、翌22日マバラカット全機帰投
ただし敷島隊直掩4機のうち2機は報告のため21日中にマバラカット帰投
朝日隊1名(甲10期)、22日若桜隊に編入(さらにその後、26日葉桜隊に編入)

10月21日(セブ)
大和隊<2名>、初出撃
指揮官(久納好孚・中尉、予学11期)、特攻死(セブ90度185浬)
悪天候を冒し、体当たりを決行したと認定
列機1機(甲10期)は指揮官と分離帰投(22日若桜隊編入→25日特攻死)
直掩1機(甲10期)も同様に指揮官と分離帰投、戦果の確認なし
(→ 25日大和隊第一次攻撃隊指揮官、特攻死)

10月22日(マバラカット)
山桜隊3名(直掩2機あり)、初出撃
天候不良のため敵発見できず全機帰投
(甲10期3名)

10月23日(マバラカット)
敷島隊5名(直掩4機あり)、2回目出撃
天候不良のため敵発見できず、全機帰投
(海兵70期、甲10期3名、丙15期)

10月23日(セブ)
大和隊<2名>出撃
指揮官(佐藤馨・上飛曹、丙4期)、特攻死(スルアン沖)
体当たりを決行したと思われるが詳細不明
列機1機(石岡義人・一飛曹、甲10期)、エンジン不調で引き返す
(21日一括菊水隊から編入、11月12日第五聖武隊で特攻死)
直掩機はいたはずというが不明

10月24日(マバラカット)
敷島隊5名(直掩4機あり)、3回目出撃
天候不良のため敵発見できず、全機帰投
(海兵70期、甲10期3名、丙15期)

-10月25日-

10月25日早朝命令、”栗田艦隊のレイテ湾突入に呼応して、すでに編成されている体当たり特別攻撃隊の全機を発進させよ”(第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将、マニラ)。この時までに各隊それぞれの基地に展開していた。

朝日隊<2名>(ダバオ第一基地)、直掩1機あり
指揮官(上野敬一・一飛曹、甲10期)
(20日朝日隊編入21日出撃帰投歴あり)
未帰投、特攻死(第一ダバオ飛行場28度237浬)
直掩機が途中から不在のため消息不明、ただし
連合国側の記録によれば体当たり戦死の可能性大
甲10期1名(磯川質男・一飛曹)、天候不良、不時着
一ヵ月後徒歩にてマバラカット帰投、昭和20年5月大村湾上空夜戦で戦死
(20日朝日隊編入21日出撃帰投歴あり)
直掩1機、飛行機故障のため不時着、後日帰投

山桜隊<3名>(ダバオ第一基地)、直掩2機あり
指揮官(宮原田賢・一飛曹、甲10期)
甲10期1名(瀧澤光雄・一飛曹)
上記2名未帰投、消息不明、特攻死(第一ダバオ飛行場25度285浬)
その他甲10期1名、故障で引き返す(翌26日初桜隊編入→29日特攻死)
(三名とも、20日一括菊水隊編入、22日山桜隊編入22日出撃帰投歴あり)
連合国側の記録によれば、未帰投2機は体当たり戦死の可能性大
なお直掩2機は、悪天候のため爆装機を見失う

注:連合艦隊布告に”宮原田賢一”とあるのは誤り

菊水隊<3名>(ダバオ第二基地)、直掩2機あり
指揮官(加藤豊文・一飛曹、甲10期)、22日一括菊水隊から編入、特攻死
甲10期1名(宮川正・一飛曹)、20日大和隊編入→22日菊水隊編入、特攻死
大型空母の艦尾に2機のうち1機命中・火災停止(スリガオ海峡東方40浬)
その他甲10期1名(高橋保男・一飛曹)、敗戦時生存
22日一括菊水隊から編入、25日発進直後、脚故障で引き返すが、山桜隊の4番機扱いで再出撃、ところが、悪天候のため敵発見できず再び引き返す
(26日大和隊第三次攻撃隊直掩を努め、同期の戦果報告を行う)
25日直掩1機(その他直掩1機は氏名不詳)によって 、菊水隊の戦果報告がなされた。ほんとうは、これが神風特攻隊初の戦果である。ただし、初戦果の名誉は下記敷島隊にゆずる形となった。

敷島隊<6名>(マバラカット)、直掩4機あり(詳しい内容は後記)
5名特攻死、空母1隻撃沈など戦果大
(海兵70期、甲10期2名、丙15期、および丙17期(この時初参加)、計5名)
その他、甲10期1名がいっしょに飛び立つが、エンジン不調でレガスピー不時着。当日の直接攻撃には不参加(翌26日葉桜隊編入→30日特攻死)
なお、この時、直掩1機特攻死扱い(6名とも、タクロバン85度35浬)

彗星隊1機<2名>(マバラカット)
浅尾弘・上飛曹、乙13期、消息不明、特攻死(レイテ湾)
須内則男・二飛曹、丙10期、消息不明、特攻死(レイテ湾)

大和隊第一次攻撃隊<2名>(セブ)、直掩には彗星1機(2名)
指揮官(大坪一男・一飛曹、甲10期)、消息不明、特攻死
(20日一括菊水隊編入、21日大和隊直掩歴あり)
列機1機(荒木外義・飛長、丙15期)、消息不明、特攻死
直掩機(二人乗り)未帰投、特攻死扱い2名
(國原千里・少尉-乙5期、大西春雄・飛曹長-甲3期)
(上記4名とも、バタブ130度70浬)

若桜隊<4名>(セブ)、直掩2機あり
指揮官(木村繁・一飛曹、甲10期)、敵を見ずセブ帰投
(22日一括菊水隊から編入、25日帰投後戦死)
甲10期1名、敵を見ず帰投
(22日朝日隊から編入、26日葉桜隊編入→30日特攻死)
甲10期1名、敵を見ず帰投
(22日一括菊水隊から編入、25日大和隊編入→26日特攻死)
甲10期1名(中瀬清久・一飛曹)、消息不明、特攻死 (ダバオ130度70浬)
(20日大和隊編入21日出撃帰投歴あり、22日若桜隊編入)

10月26日(セブ)

大和隊第二次攻撃隊(第一大和隊)<2名>(直掩1機あり)、出撃
指揮官(植村眞久・少尉、予学13期)、特攻死
列機1機(五十嵐春雄・二飛曹、丙12期)、特攻死
直掩機を含めて全機撃墜される(米国側資料)
直掩機、特攻死扱い(日村助一・二飛曹-丙10期)

大和隊第三次攻撃隊(第二大和隊)<3名>(直掩2機あり)、出撃
指揮官(勝又富作・一飛曹、甲10期)、特攻死
(20日一括菊水隊、22日若桜隊編入25日出撃帰投歴あり、26日大和隊編入)
甲10期1名(移川晋一・一飛曹)、特攻死
(21日一括菊水隊から編入)
甲10期1名(塩田寛・一飛曹)、特攻死
(20日当初から大和隊編入)
護衛空母2隻に3機とも命中
直掩1機(甲10期、敗戦時生存)によって戦果報告あり
(22日一括菊水隊から菊水隊編入25日出撃帰投歴あり→26日大和隊直掩)
直掩1機、特攻死扱い(勝浦茂夫・飛長-丙15期)

注:連合艦隊布告(71号、88号)の移川晋一(直掩)・勝浦茂夫(爆装)は誤り。大和隊の「戦闘報告」に記述された編成に間違いがあり、それをそのまま引き継いだものと思われる。

(26日の大和隊は、7名全員スリガオ海峡東方80浬)

10月27日(セブ)
大和隊第四次攻撃隊<2名>(直掩2機あり)、出撃
指揮官(木村幸男・一飛曹、甲10期)、途中敵機に遭遇、目的を達せず帰投
(21日一括菊水隊から編入、11月5日陸上戦闘にて戦死)
甲10期1名(松村茂・一飛曹)、21日一括菊水隊から編入
敵機に遭遇、撃墜される、特攻死(スリガオ87度20浬)

10月29日(ニコルス第一)
初桜隊<3名>(直掩2機あり)、出撃
指揮官(野並哲・一飛曹、甲10期)、特攻死
(26日一括菊水隊から編入)
甲10期1名(藤本寿・一飛曹)、特攻死
(20日山桜隊編入22日・25日出撃帰投歴あり、26日初桜隊編入)
丙17期1名(吉盛政利・飛長)、特攻死
攻撃はしたが戦果確認せず
米軍側の記録では正規空母に一機命中小火災
直掩2機の働き不明(マニラ74度180浬)

10月30日(セブ)
葉桜隊<6名>(直掩5機あり)、出撃
指揮官(崎田清・一飛曹、甲10期)、26日葉桜隊編入、特攻死
(20日朝日隊編入21日出撃帰投、22日若桜隊編入25日出撃帰投)
甲10期2名(廣田幸宣・一飛曹、山沢貞勝・一飛曹)、特攻死
(両名とも、26日一括菊水隊から編入)
甲10期1名(山下憲行・一飛曹)、特攻死
(20日敷島隊編入4回出撃帰投、26日葉桜隊編入)
丙15期1名(鈴木鐘一・飛長)、特攻死
丙16期1名(桜森文雄・飛長)、特攻死
空母突入大破など戦果大
直掩2機、特攻死扱い(残り3機帰投)
(新井康平・上飛曹-甲9期、大川善雄・一飛曹-乙16期)
上記8名、すべてスルアン島150度40浬

第一神風特攻隊指揮官・関行男大尉(敷島隊 隊長)

西条中学(愛媛県)出身、海兵70期
昭和13年12月海軍兵学校入学、459名
昭和16年11月15日海軍兵学校卒(高松宮臨席)、432名
少尉候補生として、戦艦「扶桑」乗り組み、その後、水上機母艦「千歳」
ミッドウェー、トラック泊地など出撃
昭和18年1月、第39期飛行科学生
昭和18年8月、宇佐航空隊(艦上爆撃機の実用機教程)
昭和19年1月、霞ヶ浦海軍航空隊付き(操縦教官)
昭和19年9月、台南(台湾)練習航空隊へ教官として赴任(新婚三ヶ月)
3週間後、マバラカット基地(フィリピン)へ転出、配属先は零戦部隊
昭和19年10月19日深夜、神風特別攻撃隊指揮官として指名される
昭和19年10月25日、4度目の出撃で散華、大戦果をあげる

搭乗機、零式艦上戦闘機21型(A6M2)

指揮官は、母一人・子一人で妻帯者であった。この時、教官から実戦部隊へ着任したばかりであった。しかも本来の艦上爆撃機乗りから戦闘機隊に転科したもので、ゼロ戦(戦闘機)には慣れていなかった。着任早々でメンバーは殆ど把握していない。しかも、体調を崩して半病人状態であった。等々、他に適任者は何人かいたと思われる。「どうして自分が選ばれたのか、よくわからない」。小野田政(同盟通信特派員)が最後に聞いたことばである。

敷島隊の編成表および戦果(10月25日)

零式艦上戦闘機6機(乗員6名、250kg爆弾搭載)

1番機、関行男・海軍大尉(戦死後、中佐)23歳、
2番機、谷暢夫・海軍一等飛行兵曹(戦死後、少尉)19歳
 昭和17年4月、土浦海軍航空隊入隊(甲飛10期)
3番機、中野磐雄・海軍一等飛行兵曹(戦死後、少尉)20歳
 昭和17年4月、土浦海軍航空隊入隊(甲飛10期)
4番機、永峰肇・海軍飛行兵長(戦死後、飛行兵曹長)19歳
 昭和17年5月、佐世保第二海兵団入団
 昭和17年12月、三重海軍航空隊入隊(丙飛15期)
5番機、大黒繁男・海軍上等飛行兵(戦死後、飛行兵曹長)19歳
 昭和17年12月、佐世保海兵団入団
 昭和18年3月、岩国海軍航空隊入隊(丙飛17期)
その他、爆装1機不時着(直接攻撃不参加)

注:中野<盤>雄(海軍公文書)は間違い、中野<磐>雄が正しい
原因は、海軍横須賀鎮守府の人事担当者が誤記したことによる

敷島隊の当日出撃時の編成は、爆装6機と直掩4機の合計10機であった
しかし、爆装1機がエンジン不調でレガスピー不時着
結局、直接の攻撃は爆装5機によって行われた(5名特攻死)
なお、この時、直掩1機が上記5名とは別に特攻死扱い
(管川操・飛長-丙15期)

不時着した彼(甲10期)はおそらく4番機として飛び立っていたはずである
過去3回の出撃(戦果なし)全てに同行していた彼は、やっと成就した4度目の出撃では自機の不調に涙を飲むこととなった(26日葉桜隊に編入)

敷島隊の実際の出撃回数は4回であり、4回目で目的を達した。各出撃日における爆装出撃機、あるいは実際に敵を攻撃できた機は、その時の状況によって異なっている。具体的には、出撃機は、4機(1回目)、5機 (2回目、3回目)、6機(4回目)である。ただし、4回目で実際に敵を攻撃できたのは5機である。

ところで、特攻隊による最初の体当たり攻撃は、21日、23日の”大和隊”が行ったとされるが、成果があったかどうかは確認されず、米軍側も被害を受けたという発表はしていない。

特攻隊の戦果が具体的に確認されたのは、25日の朝日・山桜・菊水隊の攻撃においてである。ただし、その戦果が伝えられるまでには少し時間がかかった。 その間に、それらの約3時間後に行われた<敷島隊>による戦果報告が先に司令部に届いた。

その戦果は下記の通り華々しいものであったため、神風特別攻撃隊(組織的な特攻作戦)第一号の栄誉は敷島隊が荷うこととなった。これには、神風特別攻撃隊指揮官自らが率いる隊という配慮もなされたものと思われる。

日本側発表、米航空母艦1隻撃沈、同1隻炎上爆破、巡洋艦1隻轟沈
米軍側記録、航空母艦1隻沈没、同2隻小破
空母「セントロー」沈没、ホワイトプレーンズ、キトカンベイ小破

その後の特攻作戦

「この作戦限り」(大西中将)のはずであった特攻作戦はその後も継続されていくことになる。

敷島隊等の成果を受けて、10月27日、29日には、第二次神風特別攻撃隊(彗星6機、九九艦爆5機の合計11機で8隊構成)が編成され、10月27 日~11月1日の間に出撃していった。そしてその後も、年明けまでフィリピン方面での特攻作戦が実行された。なお、陸軍特攻は11月7日から始まっている。

昭和19年10月17日、米軍、スルアン島(フィリピン)に上陸
昭和20年1月9日、連合国軍、ルソン島リンガエン湾上陸開始
日本軍司令部(陸海軍とも)は台湾に転進(撤退)した。

フィリピン特攻作戦:
海軍、昭和19年10月21日~昭和20年1月9日まで
突入機202機(搭乗員256人)、未帰還機131機
奥宮正武著「海軍特別攻撃隊」より
陸軍、昭和19年11月7日~昭和20年1月13日まで
突入機148機、未帰還機170機、自爆24機
生田淳著「陸軍航空攻撃隊史」より

注:特攻隊員の数は、資料等によって異同があり、全容をつかむに至っていない。これはほんの一例として記載しておく。

昭和20年2月19日、米軍、硫黄島上陸開始
昭和20年4月1日、米軍、沖縄本島中部嘉手納海岸に上陸
昭和20年6月23日、沖縄における組織的戦闘終結
昭和20年8月15日、終戦の詔勅(玉音放送)
昭和20年9月2日、降伏文書調印式
 戦艦ミズーリ号(重光葵全権、マッカーサー連合軍総司令官)

連合国軍の攻勢に対して、日本軍は、台湾、九州(鹿屋、知覧など)から特攻機を繰り出したが、戦局を変えるまでには至らなかった。それにもかかわらず、特攻作戦は、日本が敗戦を迎える日まで中止されることはなかった。最後は、本土決戦の前触れとして、関東(木更津など)でも実行されている。

特攻作戦は、昭和20年4月沖縄決戦を迎えた段階で、正式な作戦手段となったかのような様相を呈する。「全軍特攻」である。「白菊」という機上作業練習機(時速230km)や水上機など、およそ特攻とは無縁と思われる低速機まで使用された。

最後の特攻(宇垣特攻)

昭和20年8月15日午後4時過ぎ、戦争はすでに終結(正午の詔書放送)していたにもかかわらず、701空<大分>派遣隊の彗星(すいせい)艦上爆撃機11機が沖縄方面に向けて特攻出撃した 。なお、彗星は複座で、操縦員、偵察員が2名セットで乗り組んでいた。また、出撃の日付は翌16日との説もある。

これより先、第五航空艦隊-司令長官・宇垣纒(うがき・まとめ)海軍中将(海兵40期)-は、「陣地変更」と称し鹿屋基地を見捨てて大分に移っていた(7月30日)。そこに所属攻撃部隊として、彗星一個中隊が美保基地(鳥取県)から大分に派遣された。この時、派遣隊長は19機の信頼する部下たちを選んで連れて行っていた。

宇垣長官が出した最後の特攻命令(5機編成)は、この派遣隊長を指揮官として指名したもので、長官自らが率いる(直率)というものであった。これを受けて隊長は人選を行ったが、選に漏れた者の中からも志願者が出て結局11機まとめての出撃になったという。

宇垣特攻隊の人数は操縦員、偵察員がそれぞれ11名づつ、そして隊長機の後部座席にもぐり込んだ宇垣長官自身の合わせて23名となる。なお、大分派遣当初の19機がこの時点まで健在であったとすれば、最後の特攻には全機が参加したのではないということになる。

ところで、五航艦司令部の通信室では、サンフランシスコ放送を傍受し続けていた。それらは必要に応じて直ちに日本語に翻訳され、宇垣長官に届けられていた。そのために二世も含めて英語に堪能な士官が配置されていたという。

宇垣長官はかなり正確に戦況を知りうる立場にあった。敗戦前日の14日には「対ソ及び対沖縄積極攻撃中止」命令も受け取っていた。宇垣特攻が戦争終結後の特攻出撃であるという認識は当然あったはずである。海軍でも苦慮した模様で、宇垣特攻に関しては特攻隊員に与えられる栄誉である二階級特進は行っていない(普通の戦死による一階級特進?)。

宇垣特攻隊編成表

彗星艦上爆撃機11機(乗員23名、800kg爆弾搭載)

操縦員、偵察員、備考

海軍大尉(海兵70期)、海軍飛曹長(乙飛9期)、宇垣長官同乗
海軍中尉(海兵73期)、海軍上飛曹(乙飛17期)
海軍上飛曹(丙飛)、海軍中尉(海兵73期)
海軍中尉(学生13期)、海軍上飛曹(甲飛11期)
海軍上飛曹(甲飛11期)、海軍中尉(学生13期)
海軍上飛曹(丙飛)、海軍少尉(生徒1期)
海軍二飛曹(特乙1期)、海軍一飛曹(乙飛18期)
海軍一飛曹(丙飛)、海軍一飛曹(乙飛18期)
海軍一飛曹(丙飛)、海軍中尉(学生13期)、不時着
海軍一飛曹(乙飛18期)、海軍一飛曹(乙飛18期)、不時着
海軍一飛曹(甲飛12期)、海軍二飛曹(甲飛13期)、 不時着

海兵:海軍兵学校、学生:大学高専卒の将校、生徒:大学高専卒より
甲飛、乙飛、丙飛:飛行予科練習生、甲は中卒、乙は小卒、丙は一般兵科

参考図書

指揮官たちの特攻-幸福は花びらのごとく-
城山三郎著、新潮社2001年
神風特攻の記録-甲飛10期生を中心として-
金子敏夫著、光人社2001年
特に第一神風特別攻撃隊の動向について詳しい
他書籍の正確度をはかる”リトマス試験紙”として非常に有用

ホタル帰る-蛍になって帰ってきた隊員がいた-
赤羽礼子・石井宏著、草思社2001年
月光の夏-最期にピアノ・フッペルで「月光」を弾いた隊員がいた-
毛利恒之著、サンマーク出版2003年
真相・カミカゼ特攻-必死必中の300日-
原勝洋著、KKベストセラーズ2004年
写真と攻撃記録と隊員名簿による画期的ドキュメント
ただし、特攻隊員名簿は、”押尾”著書の方が有用

「特攻」と日本人-昭和史最大の「悲劇」を問う!-
保阪正康著、講談社現代新書2005年
特攻隊員は自らの死をもって何を訴えたかったのか
新しい特攻論の必要性を提唱した力作

特別攻撃隊の記録-海軍編-
押尾一彦著、光人社2005年
大変な労作である。ただし、その内容には細かい異同や氏名の誤記などがあり、必ずしも100%完璧とはいえない。参考とする場合は、その都度改めて精査する必要があるだろう。

海軍特攻のすべてが分かる(ただし大きなミスあり要注意)
(アマゾンレビュー、akimasa21、2005/09/21)

神風特別攻撃隊(しんぷうと読む)とは、旧日本帝國<海軍>航空機による特攻隊のことをいう。最初の神風特攻隊は、太平洋戦争末期(昭和19年10月20日)のフィリピンにおいて編成された。「この作戦限り」であったはずの特攻作戦はその後も継続され、米軍の進攻に伴って、特攻機の発進基地は太平洋から台湾、そして本土へと後退していった。

本書はそのすべてを克明に追った記録である。各攻撃隊の動向のすべてがコンパクトにまとめられている。飛行機の写真、人物のスナップ写真、集合写真など貴重な写真が数多く集められている。巻末には「海軍神風特別攻撃隊出撃一覧表」があり、この一冊で神風特攻隊の全容がわかるはずである。大変な労作である。しかし、残念ながら本書には非常に大きな欠陥があり、その内容に全幅の信頼をおくことはできない。

例えば、最初に編成された第一神風特攻隊(爆装隊員37名)では、爆装隊員の特攻死32名(敗戦時の生存者1名のみ)に加えて、直掩要員(護衛および戦果偵察)の特攻死が7名ある。その中で、爆装・直掩の取り違え(氏名の入れ替わり)1件2名、さらに氏名そのものの誤り2件2名がある。いずれも連合艦隊布告をそのまま正しいと信じた結果であることは間違いない。正確な資料作成のため、金子敏夫著「神風特攻の記録-甲飛10期生を中心として-」光人社 2001年刊など、先達の努力をしっかりと受け止めて欲しい。

特別攻撃隊の記録-陸軍編-
押尾一彦著、光人社2005年
上記の陸軍編である。こちらも力作。

「真相・カミカゼ特攻」原勝洋著、KKベストセラーズ2004年
この空しさをどうすればいいのか
(アマゾンレビュー、akimasa21、2005/09/24)

本書の目玉は、著者が米国国立公文書館2(メリーランド州カレッジパーク)で発掘(2004年前後)した資料である。写真はいずれも米側カメラマンが艦船上で撮ったものであり、体当たり攻撃直前の特攻機、あるいは、被害を受けた米艦船の状況などが鮮明に映し出されている。また、米艦船で記録された特攻機のくわしい攻撃状況も紹介されている。

日本側資料としては、フィリピン、台湾、そして本土と後退しながら実行された特攻作戦の概要とそれによる戦死者名を、陸軍・海軍を合わせて時系列ですべて紹介している。これらと上記米国側の資料とを突き合わせれば、特攻機を特定した上で、突入状況および戦果を確認することができるケースも出てくるであろう。

本書中で、「敷島隊」零戦6機(特攻死)と表記された箇所がある。これでは、爆装・直掩の役割を区別した正確な情報は伝わらない。ここは正確に、爆装5機突入(爆装6機中1機エンジン不調で引き返す)および直掩4機中1機上空戦闘で撃墜、とすべきである(金子敏夫著「神風特攻の記録」光人社2001年刊)。なお、特攻戦死者の全容については、押尾一彦著「特別攻撃隊の記録」(海軍編、陸軍編)光人社2005年刊にもくわしい。

また、特攻隊は一般的に”KAMIKAZE”特攻隊と呼ばれる場合が多いことは事実だ。しかし、神風特別攻撃隊の”神風”は、正しくは”しんぷう”と読む。そしてこれは厳密にいうと、旧帝国<海軍>の<航空機>による特攻隊のことを指しており、陸軍ではいかなる場合にも使用していない。

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