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レンツ警告(日本ではどう受け止められたのか)

 2016/08/15 日本の薬害・公害
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サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし
そして、上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
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レンツ警告、日本にも届く

レンツ警告(1961年11月)後、欧州各国では直ちにサリドマイドの回収が行われた。1961年末までには回収作業は終了したものと思われる。これに対して、日本国内の動きは非常に緩慢かつ信じられないものであった。

そもそも、日本語による情報は全くなかった。その中で、日本語で書かれた最も早いサリドマイド製剤の副作用情報は、『日本医師会雑誌』1962年3月15日号の「海外短信」と思われる。そこでは、西ドイツにおける多発神経炎や催奇形性といった副作用について紹介をしていた。

しかし、そこで紹介されているのは、西ドイツの睡眠薬コンテルガン、つまりその成分であるN-フタリル・グルタミン酸イミドによる副作用である。サリドマイドという言葉はまだ出てこない。

したがって、同雑誌の読者である医師でさえも、日本国内のサリドマイド製剤(イソミン、プロバンMなど)とそれらの副作用を結び付けて考えることは、一般的にはなかったものと思われる。

さて、大日本製薬(株)が、自社のサリドマイド製剤を出荷中止するのは、レンツ警告の約半年後(1962年5月)であり、製品の全面回収を決定するのは、それからさらに4か月後(1962年9月)のことである。その間、厚生省から製品の回収命令が出されることはなかった。それどころか、厚生省はレンツ警告後に新たなサリドマイド製剤(ゾロ品)を2剤認可している。

マスコミの対応も遅れた。レンツ警告後の約半年間、わが国ではサリドマイド事件は全く報道されなかった。朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM(1962年5月17日付け)が、わが国でのサリドマイド事件の第一報とされている。

しかしその時は、日本国内にはサリドマイド児は存在しないことにされた。

日本のサリドマイド児の存在を初めて明らかにしたのは、梶井正講師(北海道大学小児科学教室)のデータを紹介した読売新聞スクープ「日本にも睡眠薬の脅威」(1962年8月28日付け)である。そしてその記事がきっかけとなり、大日本製薬(株)は、翌月(9月13日)になってやっと製品の全面回収を決定した。

その間米国では、ケルシー博士がケネディ大統領から大統領勲章を受章(8月4日)した。米国でのサリドマイド発売を未然に防いだ功績に対するものである。

大日本製薬(株)、イソミン販売中止せず

レンツ警告(1961年11月)は、12月4日、グリュネンタール社の日本代理店(日瑞貿易)を通じて大日本製薬(株)に届けられた。グリュネンタール社がすでに回収を決定(11月27日)したことも同時に伝えられた。

大日本製薬(株)は、翌日グリュネンタール社に国際電話で問い合わせをした。その答えは、「発表は科学的には信じられないが、全国の新聞にニュースが流れてしまった。もはや検討のひまはない。とりあえず、薬をひきあげた」(平沢1965,p.150)というものであった。

大日本製薬(株)は、それらを受けて厚生省と協議(12月6日)した。ところが、「有用な薬品を回収すれば社会不安を起こす」として販売を続行することになった。

その後、大日本製薬(株)は二人の学者に動物実験を委託した。小山良修教授(東京女子医大、薬理学)と西村秀雄教授(京都大学医学部、解剖学)である。小山データ(1962年8月頃)、西村データ(同年9月)とも「奇形はない」(藤木&木田1974,平瀬証言p.254)という結果に終わった。ヒトと各種動物の間の種差や系統の違い、あるいは実験方法によって、催奇形性発現には大きな違いが出るということなのであろう。

さて、1962年1月早々、大日本製薬(株)から西ドイツへ学術課長が派遣された。ところが同課長は、現地にてグリュネンタール社の関係者に面会したのみであった。サリドマイドと奇形発生との関係について、レンツ博士やその他学者の意見を聞くことはなかった。西ドイツの州政府を訪問することもなかった。それにも関わらず、帰国してから「レンツ博士の発表には科学的根拠がない」と報告した。

グリュネンタール社からはその後2回(同年3月29日付け、4月25日付け)、大日本製薬に対して「直ちに販売を中止するように。販売を継続しても責任は持たない」との警告が届けられた。

厚生省、新たなサリドマイド製剤(ゾロ品)認可

厚生省は、レンツ警告(1961年11月)が日本に届けられた後に、新たなサリドマイド剤(ゾロ品)2剤、すなわち「パングル」(1962年2月)と「ネルトン」(同5月)の発売を許可した。その後、両剤が実際に販売されたかどうかは不明であるとはいうものの、信じられない行為である。

最後の「ネルトン」が認可(5月1日)されたころには、大日本製薬(株)と厚生省の間で、サリドマイド製剤の出荷中止(5月17日)が検討され始めていたはずである。どうしてそのような時期にゾロ品を新たに認可したのであろうか。

ネルトンの販売許可について、川俣(2010,p.43)は、「(国は)この情報はこれまで故意に国民に伏せてきた」としている。私には、どのように情報を隠していたのか、その内容はよく分からない。

それはともかくとして、いしずえ1984(年表pp.117-122)にも、「ネルトン」の記述はない。そして、日本のサリドマイド裁判でも、レンツ警告後に認可されたサリドマイド製剤としては、「パングル」のみが取り上げられたようである。当時の製薬課長は、パングルを認可した理由を問われて、「(責任者として自ら決裁したことを)覚えておりません」と証言している。(藤木&木田1974,平瀬証言p.267)

厚生省は、国内のサリドマイド出荷中止の1週間後に、各都道府県薬務課宛に厚生省通達「サリドマイド製剤について」を出している。そこには「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」と記載してあった。

1963年(昭和38)になってから、厚生省の製薬課長が西ドイツを訪問した。そして、そこでレンツ博士に面会した。しかし、面会時間は通訳を交えてわずか30分程度のものであった。しかもその翌日、休日で子どもを連れたレンツ博士と市内の動物園ですれ違ったという。

この一件以外、厚生省及び日本の製薬会社からレンツ博士を訪問したケースはなく、手紙その他の手段での問い合わせも一切なかった。(藤木&木田1974,レンツ証言pp.112-114)

松永英(国立遺伝学研究所人類遺伝部長)の場合

レンツ警告は、その意義「疫学調査とその統計学的な処理及び具体的な対策」を理解できる日本人学者の目には触れなかったのであろうか。厚生省は、レンツ警告を受けて、大日本製薬(株)と何度も協議を繰り返した。その都度学者の意見も聞いた。

しかしながら、欧米諸国と異なり、「何はともあれ、直ちに回収」という措置が取られる気配はその後も全くなかった。

松永英は、後のサリドマイド訴訟で原告側証人として出廷(1971年2月、4月の2回)した。そして「サリドマイドの事件を私が初めて知りましたのは、翌年の三月ごろだったと思うんですが、ランセットで、初めて見たんです」と証言している。(増山編1971,松永pp.122-124)

その当時、ランセットがロンドンから日本に届くまで1~2か月(船便)かかっていたという。そうしたランセットなどの国際的な医学雑誌によって、レンツ博士や梶井博士はお互いの論文を読んでいたのである。松永部長が梶井博士を知ったのも、ランセットに載った梶井論文を読んでからだという。

松永部長の専門は遺伝疫学である。当然、サリドマイド禍について関心がある。しかし彼は、それまでサリドマイド製剤が日本で販売されていることすら知らなかった。彼に対して厚生省や大日本製薬(株)から、レンツ警告に関する問い合わせは何もなかった。

松永部長は、証言の中で、電話一本かけて聞いてもらえれば、レンツ警告「サリドマイドには催奇形性がある」について的確なアドバイスができたと、日本での回収が大幅に遅れたことを悔やんでいる。

日本薬剤師会の場合はどうか

日本薬剤師会雑誌の2013年8月号付録(同年6月11日発行)に、『日本薬剤師会年表』がある。公益社団法人日本薬剤師会の創立120周年記念事業の一環として作成されたものである。

サリドマイド関連の項目は、下記3件のみである。なお、それらの記述が極めて不正確であり、参照するには注意が必要であろう。

  • 1961年(昭和36)11月、日本でもサリドマイド奇形児問題化
  • 1962年(昭和37)5月、厚生省、サリドマイド製剤の製造販売中止を勧告
  • 1974年(昭和49)10月、サリドマイド訴訟和解成立

1961年11月の記事は、明らかにレンツ警告(1961年11月)と取り違えている。日本国内でサリドマイド児問題が顕著となるのは、読売新聞スクープ(1962年8月)以降のことである。

1962年5月の記事は、正しくは「自主的に販売中止/イソミンとプロバンM」(朝日新聞スクープ)であり、実際に大日本製薬(株)が「製造販売の中止」を決定したのは、それから4か月後の同年9月になってからのことである。

1974年の記事も不正確である。確かに同年10月13日、原告・被告双方の間で和解確認書に調印して、東京地裁で和解が成立(10月26日)している。ただし、東京も含めて全国8地裁の全てで和解が成立し終わるのは、翌月の11月20日のことである。

つまり、ここは正しくは「サリドマイド訴訟、東京地裁で和解成立」、あるいは、それに付け加えて「その他全国各地の7地裁で順次和解成立(同年11月中)」とすべきであろう。

サリドマイド事件全般についてのまとめ

サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
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