1. TOP
  2. サリドマイドの誕生(西ドイツ&日本)

サリドマイドの誕生(西ドイツ&日本)

 2016/08/12 日本の薬害・公害
  248 Views

サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし
そして、上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
このページも詳細ページの一つです。(現在の詳細ページ数、20数ページ)

睡眠・鎮静剤「コンテルガン」(西ドイツ)

サリドマイドは、最初、チバ製薬(スイス)でグルタミン酸誘導体として製造(1953年)された。しかし、薬理作用がないということで開発は中止されていた。(以下主として、栢森1997,pp.6-12参照)

サリドマイドを改めて合成したのが、グリュネンタール社(西ドイツ、当時)である。同社は、1954年5月に特許を出願し、臨床試験を経て、1957年10月1日(昭和32)、睡眠薬・精神安定剤として「コンテルガン(Contergan)」の名前で販売を開始した。

サリドマイドは、従来から使用されていたバルビツール酸系睡眠薬とは系統の異なる薬剤である。その特徴は、即効性があり、朝の持ち越し効果が少ないというものであった。また、呼吸抑制作用が弱く、大量に服用しても致死的でないので、自殺目的には使用できないと考えられた。そこで、同薬の副作用として多発神経炎が問題となるまでは、大衆薬(医師の処方箋を必要としない)として取り扱われ、最も人気の高い睡眠薬となった。

サリドマイドは、提携会社を通じて世界中(46か国)で販売された。その内訳は、欧州11、アフリカ7、アジア17、さらに西半球11か国に及び、各国でそれぞれ異なった商品名で販売された。また、他の薬との複合剤としても幅広く使用された。

そのため、サリドマイドの催奇性が全世界のマスコミで取り上げられるようになってからも、自分の処方している薬にサリドマイドが含まれていることを知らない医師がいた。まして、一般市民では気付きようもなかった。

なお、フランス、米国及び東欧諸国(東ドイツ、ソ連など)では発売されなかった。

イソミン、製法特許を主張(日本)

日本のサリドマイドは、大日本製薬(株)が、薬学雑誌に掲載されたグリュネンタール社の文献にヒントを得て、独自の製法を用いて合成を行い特許を出願した。

物質特許ではなく製法特許を主張したのである。そして、1958年1月20日(昭和33)に「イソミン」の名前で販売を開始した。注:製法特許主義(同じ化学物質であっても、製法さえ異なれば(別の化合物として)特許権を主張できるとする考え方)

なお、日本が欧米並みの物質特許主義に移行するのは、1976年1月1日(昭和51)のことである。そこで当然ながら、当時既に物質特許主義をとっていた西ドイツのグリュネンタール社との間で法的な争いが起こった。

大日本製薬は、イソミン販売開始後にグリュネンタール社との間で技術援助契約を結んだ。さらに、その2年後には技術提携を行い特許問題を解決した。つまり「「日本及び隣接地域」での販売権と技術情報の提供の見返りにロイヤリティーを支払う」ことになった。(川俣2010,p.22)

イソミンは台湾へも輸出され被害を生じた。

薬事審議会と事務局限りの包括協議について

1950年代後半、薬事及び毒物劇物の取扱いに関する重要事項を調査審議するため、厚生大臣の諮問機関として薬事審議会(薬審)が設置されていた。(2001年以降、薬事・食品衛生審議会)

その中で、医薬品の製造許可に関連する組織としては、常任部会、その他に新医薬品特別部会、更にその下部組織として新医薬品調査会が設けられていた。ただし、生物学的製剤については、生物学的製剤特別部会で処理をしていた。

なお、多数の案件を円滑に処理するため、一定の基準を満たすものは、事務局限り(厚生省薬務局製薬課)で処理を行っており、これを包括協議といった。ここで一定の基準「以外」とは、「作用がはげしかったり、効能の範囲が社会的問題に大きく関係するような場合」を指すものと理解される。(平沢1965,pp.120-121)

包括協議には第1項から第8項まであり、1~7項については、完全に事務局限りで処理をした。第8項は、欧米先進国で既に発売されている医薬品が対象であった。第8項の対象医薬品は、「日本国内では初めての新薬」という理由で、専門家(新医薬品調査会)の審議を必要とした。ただし、あくまでも包括協議の対象であり、薬事審議会にかけられることはなかった。

イソミンは、包括協議第八項で処理された

厚生省は、イソミンの新薬申請を包括協議の対象とした。つまり、「(イソミンは)さほど重要な薬とみなされていなかったということになる」(平沢1965,p.121)。ただし、先進国では既に発売されているものの、日本国内では初めての新薬として、包括協議第八項に該当する医薬品として受理した。

ところがその時、コンテルガン(西ドイツ)はまだ発売準備中だった。当然ながら世界各国のどこでも発売はしていなかった。それにも関わらず、イソミンの製造販売許可申請書には、コンテルガンが既に西ドイツで販売されているかのような資料が添付されていたのである。

当日の新医薬品調査会では、イソミンと他社品1剤の合計2剤が審議の対象となった。調査資料は1週間前に各委員宛に発送されていた。とはいうものの、審議は2剤合わせてわずか1時間30分程度で終了した。

イソミンの安全性・有効性について

イソミンの特許出願から製造販売許可申請まで、わずか1年足らずしかない。当然のことながら、きちんとした動物実験や臨床試験をやる余裕はなかったものと思われる。

また、大日本製薬とグリュネンタール社との関係は、特許問題を抱えていたこともあって当初から良くなかった。大日本製薬は、グリュネンタール社が持っていたサリドマイドに関する情報を、どの程度入手できていたのであろうか。

グリュネンタール社による発売前の臨床試験では、めまい、耳鳴り、便秘などの副作用報告があった。同社内でも、コンテルガン発売に反対する人たちがいた。そしてその懸念は、発売後に多発神経炎として証明されることになる。

グリュネンタール社では、ヒトにおける薬物動態(吸収、分布、代謝及び排泄)試験は実施していない。動物実験では、急性・亜急性毒性試験は不十分ながら行われたものの、慢性毒性試験のデータはない。催奇形性試験はもちろん行っていない。

いずれにせよ、大日本製薬では、イソミンの有効性・安全性を評価するために必要十分なデータを集めきれてはいなかったと考えられる。それでも、イソミンは製造販売を許可された。

製薬課長(厚生省(当時))の天下りをめぐって

イソミン発売当時の製薬課長(厚生省(当時))は、後に山之内製薬(株)に入社して開発部長になった。それに続いた二人の製薬課長は、退任後、それぞれ中外製薬(株)と藤沢薬品工業(株)に入社した。そして、同じく開発関連の部署についた。なお、それ以前の製薬課長(複数)も、ほぼ同規模の製薬企業に再就職していた。

いわゆる天下りである。つまり、薬に関する許認可を与える側から、それを求める側に立場を変えたことになる。近い将来天下るかもしれない企業に対して、薬をめぐる審査を公正に行うことが果たしてできるであろうか。平沢(1965,pp.181-185)は、これを「副意識の中の贈収賄関係」と称している。

ところで、サリドマイド訴訟における和解確認書の覚書の署名者の中に、厚生省薬務局長の名前がある。署名にあたって彼は、二度と薬害は起こしませんと誓ったはずであった。しかし、(株)ミドリ十字に天下り、後に社長となった彼は、薬害エイズ事件の当事者として被告席に座ることになった。

サリドマイド事件全般についてのまとめ

サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし
そして、上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
このページも詳細ページの一つです。(現在の詳細ページ数、20数ページ)

\ SNSでシェアしよう! /

エストリビューターへの道|電子書籍は最高のブランディングツール)の注目記事を受け取ろう

NO IMAGE

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

エストリビューターへの道|電子書籍は最高のブランディングツール)の人気記事をお届けします。

  • 気に入ったらブックマーク! このエントリーをはてなブックマークに追加
  • フォローしよう!

ライター紹介 ライター一覧

akimasa21

関連記事

  • レンツ警告(日本ではどう受け止められたのか)

  • サリドマイド被害者のための福祉センター「いしずえ」

  • レンツ警告(サリドマイドが奇形の原因である可能性が極めて高いと警告/1961年11月)

  • あなたは自分が今、どんな薬をのんでいるか知っていますか

  • サリドマイド事件のあらまし

  • サリドマイド事件(疑わしきは直ちに「回収」すべきであった)