1. TOP
  2. サリドマイド事件(回避できたはずの症例、生まれたはずの症例)

サリドマイド事件(回避できたはずの症例、生まれたはずの症例)

 2016/08/14 日本の薬害・公害
  231 Views

サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし
そして、上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
このページも詳細ページの一つです。(現在の詳細ページ数、20数ページ)

レンツ警告後の患者数は、日本が世界で一番多い

胎児(胎芽)がサリドマイドの影響を受けてから生まれるまで、最大で約8か月である。そこでもし仮に、サリドマイドの全面回収が、レンツ警告(1961年11月)が出された年の間に完了したとするならば、1962年9月以降サリドマイド胎芽症が発症することはなかったと考えられる。

ところが、梶井データ(日本人データ)では、1962年9月以降の発症数(死産を含む)の比率は、全体の約43.9%にもなる。また、栢森(1997,p.42)によれば、日本では「1962年9月以降に生まれたサリドマイド児が100名ほど」いるという。生存者の数のことであろう。

もしも、回収作業が速やかに行われておれば、日本のサリドマイド児の約1/3あるいは半数近くは、障害を持って生まれることはなかったと考えられる。つまり、回避できたはずの症例がそれだけ多いということになる。

レンツ警告後の患者数は、日本が世界で一番多い。

日本での回収作業は大幅に遅れた

レンツ警告(1961年11月)を受けて、欧米先進国における回収作業は、少なくとも同年12月末(警告から1~2か月後)までには終了したものと思われる。

それに対して日本では、レンツ警告が出されてから販売中止(回収)決定(1962年9月)まで、およそ10か月もかかってしまった。そして、サリドマイド製剤の回収がほぼ完了するのは、それからさらに約半年後の1963年3月頃である。

しかしながら、すべてのサリドマイドの回収作業が完全に終わったのは、1963年半ばから末頃と推定されるという報告(栢森1997,p.9)もある。また、回収作業自体が徹底したものではなく、中には「10年後の1971年までサリドマイドが回収されずに残っていた病院もあったという」(津田2003,p.87)。

いずれにしても、日本での回収決定とそれに続く回収作業が大幅に遅れた間にも被害は拡大していった。

日本におけるサリドマイド胎芽症の出生頻度(梶井データ)

日本人のサリドマイド禍について最初に発表したのは、梶井正博士(当時、北海道大学医学部小児科講師)である。

梶井は、日本のサリドマイド裁判で原告側証人として出廷している(1971年10月、東京地裁)。その時の尋問で取り上げられた資料の一つに、「サリドマイド胎芽症の出生頻度を示すヒストグラム(180例)」がある。藤木&木田(1974,梶井証言p.166)⇒ サリドマイド使用量の推移とサリドマイド胎芽病の増減には相関関係がある

症例数は180例で、ランセット投稿(7症例)後の自験例に加えて、全国の大学へのアンケート結果や文献から収集したものである。なお、生年月日を付き合わせることによって、重複例を除去している。データは、発症数(死産も含む)を4か月ごとに集計したものとなっている。

梶井博士は、できる限り患者及び両親のところに自ら出かけて行き、詳しい聞取り調査を行なっている。北海道内はもちろんのこと、本州の事例についても出張の都度可能な限りの調査をしている。梶井の臨床家としての資質、真摯な調査態度によってデータの正確性が高められている。

梶井データによれば、日本における発症数のピークは「1962年9~12月」にある。つまり、レンツ警告(1961年11月)の翌年「1962年1月~4月」に最も多くの妊婦がサリドマイドを服用したことを示唆している。そしてさらに、その翌年1963年及びそれ以降の発症例が確認されている。

1962年9月以降の生まれは、全体180例中の79例であり、その比率は約43.9%にもなる。

日本におけるサリドマイド被害者数(いしずえデータ)

「財団法人いしずえ」のホームページを確認(2013/01/24閲覧)すると、「サリドマイドと薬害」のページに、「日本におけるサリドマイド被害者の出生年と男女別」が示されている。

内訳は以下のとおりである。(総合計309人)

1959年生(男6、女6)、1960年(同16、同9)、1961年(34、24)、1962年(88、74)、1963年(24、23)、1964年(2、2)、1969年(1、0)、合計(男171、女138)。

これをみると、イソミン発売の翌年(1959年)に最初の被害児が生まれている。そして、その後年々増加傾向を示し、レンツ警告の翌年(1962年)には前年比3倍近くに急増してピークに達する。その翌年の1963年には、前年(ピーク時)の1/3弱に急減して一応の終息をみている。

しかしながら、その翌年1964年も発症があり、最後の被害児が生まれたのは、それからさらに5年後の1969年(昭和44)である。

1969年の1例は、「母親が妊娠中に不眠のため、娘時代に購入し保存してあったイソミンを服用」したもので、「(その後)保存してあった空き箱を提出した。現地調査を行ない、その背景が認められた」。(木田1982,p.162)

サリドマイド児出生数(先天異常学会調査データ)

「サリドマイド児出生数」の年ごとの変化を示したヒストグラム(棒グラフ)が、高野哲夫(1981,p.124)に掲載されている。データは、先天異常学会の調査によるものという。森山報告(アンケート調査936症例)のことである。

先天異常学会のデータを改めて確認すると、イソミンが発売(1958年1月)された年に、すでにサリドマイド児が生まれている(出生数76、その内生存数17)。しかもその数は、翌年(1959年)よりも多くなっている。

梶井博士は、裁判における証言の中で、自作のデータ(甲第129号証の2)を示しつつ、森山調査には「サリドマイドではないデータがあるんじゃないか」との懸念を示している。(藤木&木田1974,梶井証言p.148,166)

なお、高野が作成した原図(高野1981,p.124)には「1970年現在」と表記されている。誤りであろう。調査の結果は、1964年3月にまとめられて厚生省に報告されているはずである。また、レンツ警告の日を11月18日としている点など、事実関係の解釈に細かな異同もみられる。注:11月15日、レンツ博士がコンテルガン発売元のグリュネンタール社へ電話(レンツ警告)。11月18日、レンツ博士が小児科学会においてある薬剤(コンテルガンの名前は出さず)の関与を示唆。

生まれたはずの症例

さて、サリドマイド胎芽症の生存率は、レンツ文献(栢森1997,p.41)では約60%としている。それに対して、上記の先天異常学会のデータでは、各年ごとの生存率が20%前後と非常に低い点が気になる。

日本におけるサリドマイド胎芽症の発症数(死亡例を含む)は、レンツ・中森による「各国のサリドマイド被害発生状況」(高野1981,p.125)によれば、約1,200名である。そして、認定患者数(生存)は309名である。したがって、生存率は、309/約1200=約25%ということになる。

先天異常学会のデータ同様、日本での生存率は諸外国と比べて異常に低いと言えるだろう。また、日本では下肢に関する症例が極めて少ない、逆に言うと、比較的軽症例が多いとされている。

『サリドマイド胎芽病診療 Q&A』(2014年)では、上肢低形成型のうち下肢低形成合併例が3名あり、「うち1名が重度低形成で移動には車椅子が必要」としている。つまり、下肢に障害があるのは309例中3例のみと読み取れる。この比率は諸外国と比べると、極端に低い数値と思われる。

佐藤嗣道(自分自身もサリドマイド被害者)は、生まれたはずの患者が「死産扱いとして処置」されたケースがあることを指摘している(ビジランス1999,佐藤p.39)。痛ましいことである。

サリドマイド事件全般についてのまとめ

サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし
そして、上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
このページも詳細ページの一つです。(現在の詳細ページ数、20数ページ)

\ SNSでシェアしよう! /

エストリビューターへの道|電子書籍は最高のブランディングツール)の注目記事を受け取ろう

NO IMAGE

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

エストリビューターへの道|電子書籍は最高のブランディングツール)の人気記事をお届けします。

  • 気に入ったらブックマーク! このエントリーをはてなブックマークに追加
  • フォローしよう!

ライター紹介 ライター一覧

akimasa21

関連記事

  • サリドマイド事件(参考文献一覧)

  • サリドマイド販売量を縮刷版20万ページ分のサリドマイド広告スペースで分析してみたら

  • サリドマイド使用量の推移とサリドマイド胎芽病の増減には相関関係がある

  • サリドマイドの復権 ― サレドカプセル(日本の場合)

  • サリドマイド訴訟(因果関係・責任論・損害)

  • サリドマイド被害者のための福祉センター「いしずえ」