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サリドマイド販売量を縮刷版20万ページ分のサリドマイド広告スペースで分析してみたら

 2016/08/15 日本の薬害・公害
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サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし
そして、上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
このページも詳細ページの一つです。(現在の詳細ページ数、20数ページ)

日本の医薬品は、100%広告の力で売れている?

中森黎悟さん(サリドマイド児の父親)は、ある時偶然に、「医薬品は、外国では75%、日本では100%までが、広告の力で売れている」という趣旨の文章を目にした。大手製薬企業の社長が書いたものであった。それを読んで彼は、サリドマイド販売量を新聞広告のスペースで推測することを思い付いた。(平沢1965,pp.202-205)

それから約一か月間、彼は京都府立図書館にこもって、「大判の分厚い縮刷版のページをめくりつづけた」。そして、『朝日』、『毎日』、『読売』三紙について、1957年10月(昭和32)から1962年末(昭和37)までの医薬品広告を調べ尽くした。

イソミンとプロバンMの新聞広告(掲載期間)

まずは、イソミンとプロバンMの新聞広告が掲載された期間について、中森の調査結果を見てみよう。(以下の「」内、平沢1965,pp.202-205から引用、算用数字に変更箇所有り)

睡眠薬イソミン(サリドマイド製剤)の発売は、1958年1月20日(昭和33)である。「イソミンの広告は、発売直前の1958年1月15日にはじめて出た」。そして、「イソミン広告の最後は、(1961年)11月30日」であった。その間、イソミンの広告は断続的に、1958年7~9月、1959年3~8月、1960年2~3月と続き、「1960年5月からはずっとつづけて、1961年11月にいたっている」。

胃腸薬プロバンM(サリドマイド含有)の発売は、1960年8月22日(昭和35)である。「プロバンMの広告の初出は、1961年5月21日」であった。「プロバンの広告は、イソミンの広告が出なくなったあともつづき、1962年の5月まで出されていた」。最後は5月13日で、「4日後の17日、大日本は、製造と出荷の中止を発表した」。

大日本製薬(株)によれば、「プロバンMは、はじめ医家むけとして、売りだした。発売後1年近くなってから、医家向けの実績のうえにたって、一般大衆むけに売ろうとして、宣伝を開始した。それが1961年の秋から1962年の冬にかけて、ピークに達した」という。

イソミンとプロバンMの新聞広告量(経時的変化)

中森は、広告量を”1段の半分のスペースを1とした指数”で表わしている。(平沢1965,p.204「第1表」)

それを見ると、レンツ警告の前月(1961年10月)には、イソミンとプロバンMの広告量(指数)は、ほぼ同数(15.5、16.7)である。レンツ警告当月(1961年11月)は、イソミンの広告量(20.0)は前月から約3割増しなのに対して、プロバンM(53.0)と急増している。そして、翌月(12月)から、イソミンの広告が姿を消したのに対して、プロバンMの広告量は、86.8(1961年12月)、113.5(1962年1月)と急増している。

つまり、イソミンの広告は、レンツ警告(1961年11月)の月でピタリと止まっていた。そしてそれ以降、プロバンMが広告量を急激に伸ばし、朝日新聞スクープ(1962年5月17日、自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM)の直前まで広告を出し続けていた。

中森は、「イソミンではまずいとおもい、のこったサリドマイドをプロバンMにぶちこんで、ジャンジャン宣伝して、売りまくったのではなかろうか」と疑った。

それに対して大日本製薬(株)は、その当時次のような厚生省の通達があり、イソミン広告の中止はそれに従ったまでであり、「西ドイツのサリドマイド禍のニュースとは、なんの関係もないとしている」。

「11月22日(1961年)、厚生省は、薬務局長名の告示396号を出して、睡眠薬にはすべて、習慣性ある旨を効能書に明記することをきめ、未成年者には売らないこととし、広告を出すことも当分の間禁止した」。これは、「はびこる睡眠薬への対策の一環として、とられた措置であった」。(以上の「」内、平沢1965(pp.202-205)から引用)

プロバンMの広告は、実際にはいつまで出されたのか

中森の調査(既述)では、プロバンMの広告は、朝日新聞スクープ(自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM)の直前まで出されていたとしている。

川俣修壽(川俣2010,p.35)は、「(プロバンMの広告は)イソミンの出荷停止後も依然としてつづけられ、回収開始の22日前まで出されていた」としている(景山喜一「サリドマイド・組織論的分析」『中央公論経営問題』1972年3月25日から引用)。読売新聞スクープ(日本にも睡眠薬の脅威)の直前までプロバンMの広告が出されていたことになる。

ちなみに、川俣は、プロバンMの出荷中止は除外されており、注文があれば卸から小売り店への出荷を続けていたとも書いている。(川俣2010,pp.44-45,533)

松下一成(市民の医療ネットワーク)は、その著書(松下1996,p.25)で「プロバンMの新聞広告」のコピー画像を掲載している。朝日新聞夕刊(1962年12月19日付け)に載ったものである。大日本製薬(株)は、1962年5月の出荷中止や同年9月の回収決定後も新聞広告を出し続けていたのであろうか。

栢森(1997,pp.10-11)にも、イソミン錠やプロバンM錠の新聞広告のコピー写真が載っている。その中で、プロバンM錠のものは、上記松下のものとほとんど同じデザインである。しかも、松下資料よりも後の1962年12月27日付けとなっている。

上記の松下や栢森の新聞広告画像をよく見ると、小さく「新処方」と書かれている。

大日本製薬(株)は、1962年7月7日(昭和37)、プロバンMの替わりにプロバンMBを発売している。配合剤の成分の一つを、サリドマイドからブロムワレリル尿素に替えた製剤である。このプロバンMBをプロバンMとして広告宣伝していたものと思われる。

新聞広告量とサリドマイド児発生数(中森黎悟氏による)

高野哲夫(立命館大学)は、著書の中で「新聞広告量とサリドマイド児発生数」(中森黎悟氏による)を示したグラフを掲載している。(下図略、高野1981,p.127)

グラフは、中森の調べた新聞広告量(既述、棒グラフ)と、先天異常学会によるサリドマイド児発生数(既述、折れ線グラフ)を組み合わせて表示している。

新聞広告量は1961年にピークを示し、サリドマイド児発生数は1962年にピークとなっている。また、両者のピーク前後における増減傾向はよく似ている。高野は、この資料について、「サリドマイド剤の新聞広告と奇形児発生とのあいだに見事な平行関係が認められている」としている。

イソミン販売量の推移はどうだったのか

新聞広告量(イソミンとプロバンM)の増減は、果たして、イソミンとプロバンMの販売量に比例しているのだろうか。それがひいてはサリドマイド児出生数の増減と比例していると言えるのであろうか。

「大日本製薬が公表したイソミン販売量と奇形児出生数」(プロバンMを除く)の表を改めて確認してみよう。(増山編1971,吉村p.243)

表中のイソミン販売量(全国)を私なりに集計してみると、1958年(4,069,824錠)、1959年(5,589,132錠)、1960年(12,845,942錠)、1961年(30,003,608錠)、そして1962年(14,871,632錠)となった。

なおここで、吉村は、イソミン販売量(錠数)は「大日本からの出荷量である可能性が大きい」としている。つまり、初年度には、いわゆる押込み(発売時、メーカーから卸へ大量に在庫させる)があったことを示唆しているものと思われる。

さてデータを見ると、イソミン発売(1958年1月)の年と比べて、その翌年1959年はわずかに増加傾向を示している。1960年、1961年と販売量は年ごとに倍以上伸びている。そして1961年にピークを迎える(前年比約2.34倍)。翌年1962年は、出荷中止(5月17日)をした年である。しかしながら4か月半で、ピーク時(1961年)の半分近くとなっている。つまり、1962年も増加傾向を示している。

川端(2010,p.35)は、イソミンの売上高に関して次のデータを引用している。すなわち、景山喜一「サリドマイド・組織論的分析」『中央公論経営問題』1972年3月25日によれば、イソミンの販売額は、1958年(440万円)、1959年(6,100万円)、1960年(1億3,900万円)、1961年(3億2,500万円)そして1962年は出荷中止(5月17日)までの4か月半で(1億6,100万円)となっている。つまり、1962年も増加傾向にある。

メーカー公表のイソミン販売量(錠数)と景山データ(売上高)の増加傾向は、初年度(1958年)を除いてほぼ一致している。

ここで、私なりにイソミンの販売額を計算してみた(イソミン25mg錠10円として)。すると、1962年(出荷停止までの約4か月半)の販売額は、約1億4千万円となる。景山データの1962年(約1億6千万円)とほぼ一致している。

プロバンMの販売量推移はどうだったか

大日本製薬(株)は、「プロバンMの販売量は、1961年の秋から1962年の冬にかけてピークに達した」としている(既述)。また裁判において、大日本製薬(株)の取締役は、「プロバンMというのは、期におきましては、大体一億ちょっと越したぐらいですから、37年ごろ」と証言している。さらに「イソミンは大体一番多いときで6~7千万です」とも証言している。(サリドマイド裁判1976,第4編,p.264)

ここで期とは、半年決算つまり6か月のことであろう。そして、最盛期のイソミンの売上高(6~7千万円)は、プロバンM(1億円)の6~7割だったと証言しているのである。

ただし、前述したように、メーカー公表データ(錠数から換算)や景山データからすると、1962年5月までのイソミンの売上高(5月までの4か月半分)は、約1億4千万円から6千万円あったことになり、裁判での証言とは数値が乖離しすぎている。

イソミンに替えてプロバンMを売りまくったのが、事実かどうか私には分からない

イソミン(25mg錠、100mg/1.0g散剤)とプロバンM(サリドマイド6mg含有)を比べた場合、両者の販売額の比率が継時的にどの様に変化したのか、あるいは、イソミンとプロバンMで、サリドマイド胎芽病の発症リスクに差があるのかどうかなど、私には何も分からない。

サリドマイド児の原因薬剤別(イソミンとプロバンMなど)発症数を示したデータは、公表されていないようである。

ここで、改めて梶井データ(4か月ごとの日本におけるサリドマイド児発症数を集計)を確認してみよう。日本における発症数のピークは「1962年9~12月」にある。つまり、レンツ警告(1961年11月)の翌年、「1962年1月~4月」に最も多くの妊婦がサリドマイド製剤を服用したことを示唆している。

しかしながら、「1962年1月~4月」時点で、イソミンに替えてプロバンMのみを売りまくっていたのかどうかは疑問である。なぜならば、前述のように1962年に入ってからもイソミンの販売量は減少せず、逆にわずかながら増加傾向を示しているからである。なお、プロバンMの販売量が「1962年1月~4月」にピークを迎えたのは確かのようである。

これらを総合すれば、日本のサリドマイド製剤は、レンツ警告(1961年11月)の翌年(1962年)になって最も売上げを伸ばしたと思われる。ただしその時に、大日本製薬(株)がイソミンに替えてプロバンMを売りまくった、というのが事実かどうか私には判断できない。

中森の新聞広告量と販売量の関係を追求した努力には頭が下がる思いである。しかしながら、イソミンとプロバンMの新聞広告量のみで、両者の販売量を推測することにはやはり限界があったと言わざるを得ない。

それにしても、先進諸国に比べて、日本における回収決定の遅れが悔やまれる。

サリドマイド事件全般についてのまとめ

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