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愛知大学山岳部薬師岳遭難事件

 2016/07/31 団塊の世代一代記
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愛知大学山岳部薬師岳遭難事件とは

愛知大学山岳部13人のパーティーは、1963年1月(昭和38)正月登山として薬師岳(富山県)頂上を目指した。しかし、後に ”サンパチ豪雪” と名付けられた豪雪吹雪の中で山頂を目前にして登頂断念、下山途中ルートを誤り13人全員が遭難死した。この時、パーティーの中に地図とコンパス(磁石)を携行している者は誰一人いなかったという。

学生時代の私は山歩きをしていた

学生時代の私は山歩きをしていた。剣山(徳島県)をホームグラウンドにしており、剣山だけで十数回登った経験がある。夏には北アルプスに3年連続で通い、最後の年(3年生の時)には、立山・剱岳から薬師岳へ縦走した。1968年7~8月(昭和43)のことである。

その薬師岳では、5年前の冬(1963年1月)に愛知大学山岳部パーティー13人全員が遭難死するという事件が起きていた。

1963年(昭和38)の冬は、”サンパチ豪雪”と名付けられたほどのすさまじい降雪が北陸から山陰を襲った。新潟平野部出身の妻も、当時二階から出入りした記憶があるという。そうした中で薬師岳遭難事件が起こった。

愛知大学パーティー登頂断念す

愛知大学パーティーは、1963年1月2日(昭和38)に太郎小屋を出発、頂上まであとわずか300m(時間にして20分くらい)を残して薬師岳登頂を断念した。そして下山途中で、正しいルートから90度ずれている東南尾根に入りこんでしまった。

愛知大学山岳部遭難誌『薬師』

愛知大学山岳部遭難誌『薬師』(1968年刊)は、薬師岳遭難事件の合宿計画から遭難・捜索、そしてその後についてまとめた追悼誌(書籍)である。

『薬師』では、遭難の原因について種々検討を加えている。そしてその中で、下山ルート逸脱と地図・コンパスの問題に関しては次のように述べている。(同書pp.140–142.)

次に、頂上直下より東南尾根に迷い込んだ地点における進路決定の誤りも、一つの重大な遭難要因としてあげられる。

この点で、磁石、地図が一部太郎小屋の中で発見され、遺体発見地点付近一帯には何も発見されなかったことは、登頂隊が携帯していなかったものと判断されよう。もし、実際この判断の如く磁石も地図もまったく持っていなかったとすれば、リーダー、装備係の重大な失敗で、弁護の余地はない。だが、万一携行していたにせよ進路の誤りの発見の遅れは、その効用をほとんど無効にしたかも知れない。この磁石、地図の問題は、いわば登山のまったく基礎的な問題で、登頂隊が忘れていたとすれば大いに反省すべきことである。

『薬師』(pp.140–141)

『薬師』は結局のところ、決定的な遭難原因について、自らきちんと指摘するまでには至っていない。

以上、全員遭難死を招いた大アクシデントについて、若干の推理をまじえながら原因の追究を進めてきた。が、ここで決定的な遭難原因といったものは指摘できない。これまでにあげた要因が、いくつか相互作用しながら、決定的、かつ致命的なアクシデントとなったのであろう。

『薬師』(p.142)

遭難の原因は豪雪吹雪にあったのではない。進むべき方角を取り違え、それに気付かず下り続けたことにある。彼らは地図とコンパス(磁石)を携行していなかった。重大な遭難原因を自ら作り出してしまったことになる。

日本歯科大学パーティーの場合

太郎小屋には、前年の大晦日から、日本歯科大学山岳部6名のパーティーも同宿していた。元旦は、一日中地吹雪にて両隊とも沈殿。翌2日、両パーティーは相次いで薬師岳を目指す。

途中で、両隊が「頂上をめざし・・・平行して行動する」場面もあった。しかし、先に登頂したのは、日本歯科大学隊であった。

日本歯科大学隊は、頂上にて「しばらく待ったがAAC(Web作者注:愛知大学隊)の姿は現われず・・・」、下山開始。「強い風雪のため三度進路を失なう。サブリーダー二名を組ませルート偵察を行いながら下山」という状況の中で、太郎小屋に無事帰着。

実は、愛知大学隊は、日本歯科大学隊が登頂する直前に、登頂を断念して下山を開始していた。そしてそれ以降、日本歯科大学隊が愛知大学隊の姿を見ることはなく、下山中も「(愛知大学隊の)トレースはなし」という状態であった。

日本歯科大学隊は、翌3日は、強風・視界不良で下山中止。4日になり、「食料も本日の晩の分までしかない」ことから、下山実行。

なお、愛知大学隊の行方については、気掛かりとはいえ、悪天候の中で捜索に出る余裕はなかった。

以上、「」内は、遭難誌参考資料(日本歯科大学パーティーの行動記録)pp.58–61から抜粋。その他、遭難隊員(記録員)による行動記録pp.39–48参照。

太郎小屋がポイントだ

愛知大学パーティーの登山計画は次のとおりであった。すなわち、12月25日に名古屋を出発、折立、太郎小屋付近、薬師平とキャンプを進めて元日に登頂、1月6日に下山予定。しかし、予定日を一週間過ぎても彼らは下山してこない。1月14日になり、愛知大学当局から愛知県警を通じて富山県警に捜索願いが出された。

翌15日から吹雪をついて捜索活動が開始され、報道合戦も過熱化した。もし、愛知大パーティーが太郎小屋に避難してさえいれば、とりあえず生命に別状はないだろう。もしも小屋にいないとなれば・・・。こうして太郎小屋が最大の焦点となった。

プロジェクトX~挑戦者たち~

この薬師岳捜索要請(1963年1月)の第一報について、プロジェクトX~挑戦者たち~『魔の山大遭難 決死の救出劇』(NHK出版、Kindle版)は、次のように述べている。

「1月13日。剱岳のふもと、富山県上市(かみいち)町の警察署に、突然連絡が入った」。この点について『薬師』p.49は、「1月14日、~愛知県警を通じて富山県警に捜索を要請」したとしている(上述)。

なお、『魔の山大遭難 決死の救出劇』は、1969年1月(昭和44)の剱岳大量遭難時の富山県警山岳警備隊の活躍(15パーティー81人中、救出62人、死亡・行方不明19人)を中心にまとめた書籍である。

富山県警山岳警備隊は、薬師岳遭難事件(1963年1月)を教訓として、事件の2年後(1965年)に発足している。初代隊長は、富山県警上市署の鑑識係・伊藤忠夫である。この伊藤こそ、薬師岳遭難事件の時、隊長として捜索に当たった人物である。なお、この時の捜索は、警察隊と愛知大学関係者による合同救援隊として行われた。

本多勝一記者と藤木高嶺写真部員(ともに朝日新聞社)の活躍

藤木高嶺・写真部員(朝日新聞社)は、1月18日午後、小型ヘリで捜索隊を飛び越え、有峰ダムの北陸電力折立発電所に着いた。そして翌日から雪のなかをスキーで太郎小屋を目差して進んだ(ガイドの志鷹敬三さん同行)。一方、同じく朝日新聞の本多勝一・記者は、天候の晴れ間をついて大型ヘリコプターを太郎小屋まで直接飛ばすタイミングを狙っていた。

藤木は、途中で「愛知大生、食糧残したまま」「折立の飯場に、藤木写真部員確認」という特ダネをものにしながら、1月22日昼前に三角点到着、雪洞を掘る。あと1日で太郎小屋という位置である。

雪洞を掘り終わったちょうどその時、ハンディに入ってきた音声は、「太郎小屋に人影なし・・・・、太郎小屋に人影なし・・・・」。本多(鳥光資久カメラマン同行)が大型ジェットヘリ(シコルスキーS62)で小屋に強行着陸して捜索、その結果を受けて上空で旋回する朝日新聞本社機「朝風」から大阪本社へ第一報を伝える声であった。

号外「来た、見た、いなかった ― 太郎小屋に人影なし」

藤木高嶺、雪洞の中でがんばる

さて、記事送信の段になって太郎小屋と富山支局との連絡が取れない。近くの山がじゃまをして電波障害を起こしているようである。それに気付いた藤木は、雪洞の中で中継役を努める決意をする。

こうして出来上がった当日(1月22日)夕刊の大見出し
「愛知大生、全員が絶望」「太郎小屋に姿なし、本社記者、ヘリで強行着陸」

その後6日間、藤木は自らも「テント、雪に埋没、第1キャンプを発見」などの特ダネをものにしながら雪洞の中でがんばり、太郎小屋と富山支局の交信を中継するアンテナ役を果たした。なお、いくら外が寒くても雪洞の中は零度以下になることはなく、ローソク1本で1度は暖まるという。

1月25日、先行捜索隊9人が太郎小屋に到着、翌26日には、県警と大学の合同捜索本部は「27日で捜索を打ち切る」と決めた。捜索隊が現場に到着するまで10日ほどかかっていた。隊員の疲労は激しく食料も残り少ない。先行した”朝日”の捜索で全員絶望はほぼ確実である。こうした状況での早い決断であったと思われる。

遺体発見はその二か月後のことである。まだ雪深い3月の捜索はこれまた異例のことであろう。

注:プロジェクトX~挑戦者たち~『魔の山大遭難 決死の救出劇』(NHK出版、Kindle版)には、救助隊が太郎小屋に到着した時の様子について、「祈るような気持ちで太郎小屋の戸を開けた」とある。しかし、13人全員が小屋にいないことは、”朝日”の捜索(22日)ですでに分かっていたはずである。『薬師』の写真(pp.48-49の間)を見ると、現地でMOTOROLA製のトランシーバーを使っている。

後に、本多・藤木のコンビでカナダ・イニュイ取材を行う

さて、本多勝一と藤木高嶺(当時31歳と36歳)はこの時が初対面であった。そして、この年のカナダ・イニュイ取材(カナダ・エスキモー、51回連載)を始めとする極限の民族3部作、さらにそれに続くベトナム取材でコンビを組むことになる。

キーワード:
本多勝一&薬師岳
藤木高嶺&薬師岳

参考資料

本多勝一著『新版・山を考える』朝日文庫(1998年)新版第3刷
藤木高嶺著『極限の山 幻の民』立風書房(1977年)
藤木高嶺著『チャレンジ精神を育てよう』くもん出版(1987年)
愛知大学山岳部薬師岳遭難誌編集委員会編『薬師』1968年9月(非売品)

太郎小屋:
戦前に「太郎兵衛平小屋」として建てられる
1955年に「太郎小屋」として再建(初代は損壊・消失)
1965年に「太郎平小屋」の看板を掲げる(筆は田部重治氏)
このため現在は、通称「太郎平小屋」で通っている

太郎平小屋:
秋の北アルプス、太郎平小屋と薬師岳(写真キャプション)
『賢い山のウェア選択術』 ― どんなときも快適にすごすために ―
細田充著、山と渓谷社(1999年)p.29

2013.05.26(日)遭難誌『薬師』より引用
2003.03.15(土)初出


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