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青函連絡船・洞爺丸

団塊の世代一代記
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2007/05/04(金)、海難審判庁資料追加
1999/09/25(土)、初出

洞爺丸事故、概要

洞爺丸台風、昭和29年(1954年)9月25~27日
小学校1年生(6歳)
この台風に関して当時の記憶はまったくない。

1954年(昭和29年)9月26日22時43分
青函連絡船・洞爺丸(3800トン)は、台風15号(洞爺丸台風、台風マリー)のため函館港外で座礁・転覆し、その結果、死亡および行方不明1155名(乗客乗員他1314人中、生存者わずかに159名)という大惨事となった。これは「タイタニック号」に次ぐ世界第二位、わが国最大の海難事故である。

事故当日、台風通過のため出航を見合わせていた洞爺丸は、定刻(14時40分)の4時間遅れ(18時39分)で函館港を出航した。18時頃から風雨が弱くなり晴れ間が見えてきたのを〈台風の目〉と判断したのである。

ところが、これは実は閉塞前線のいたずらであった。本物の台風の中心は、その時、まだ間違いなく函館西方の日本海上にあった。

北海道まで達してその勢力を維持する台風の数は多くない。しかし、台風15号は違っていた。渡島半島西側の日本海上(函館の緯度線上)に達する直前に急速に発達し、そして速度を急速に落とした。

風の吹き込む方向は、函館湾が日本海にわずかに口を開けている方向と一致していた。その結果、函館湾には長時間にわたって南よりの強風が海から直接吹き込むこととなった。さらに、日本海で発生した波長の長い大きなうねりが函館湾内に押し寄せてきた。

船尾開口部からは容赦なく波が打ち上げ洞爺丸にダメージを与えた。結果的に、洞爺丸船長の出港判断は間違っていたといえる。当時こうした判断はすべて船長一人の決断にゆだねられていたのだった。

風の強さは想像以上で、洞爺丸は港に引き返すこともままならず、函館港外に投錨を余儀なくされる。しかし、錨はきかず七重浜(ななえはま)に向かって流され始めた。そして、ついに座礁し一応の安心が得られたと思ったのもつかの間で、強風によって転覆してしまう。

水深わずか8m、海岸まで700mの地点であった。出港から4時間44分、座礁した3800トンもの船舶が転覆してしまうほどの想像を絶する風力であった。この時、洞爺丸以外の連絡船も数隻沈没し(いずれも乗客なし)、多くの船員が殉職した。

なお、当時GHQ占領下の日本では気象観測網は貧弱であった。また、本格的台風と接する機会の少ない北海道で、予報官自身、台風予報の経験が少なく、台風の位置をリアルタイムで捉えていなかった可能性がある。

リンク集

海難審判所(国土交通省)
海難分析集/海難分析集No.6(平成18年5月発刊)
台風と海難~台風大接近!そのときあなたは~
日本の重大海難/旅客船洞爺丸遭難事件(昭和20年代)
JST失敗知識データベース/科学技術振興機構(JST)
青函連絡船洞爺丸の沈没

洞爺丸は、当時最新鋭の青函連絡船だった

洞爺丸は、1947年(昭和22年)11月21日に青森函館間航路に就航した。戦争によって壊滅状態となった青函連絡船増強計画の一環として建造されたものであり、当時最新鋭の船舶(客貨船)だった。

3800トン4本煙突、長さ(垂線間)113.2m、積載車両軌条二条、旅客定員約1130名。1950年(昭和25年)10月18日には、日本で初のレーダー を装備して運用開始している。

洞爺丸は、沈没のわずか50日前の1954年(昭和29年)8月7日には、天皇皇后両陛下の御召船の役目を果たしている(北海道国体臨席のため)。青森発14時00分、函館着18時30分。洞爺丸の前後左右には「おじか」「あつみ」など6隻の巡視船が並走、海峡中央では防衛庁自衛艦隊24隻による登舷礼(とうげんれい)を受ける。

洞爺丸台風による犠牲者

洞爺丸
乗客(総数1167人、死亡1051名、生存116名)
乗組員(同111人、同73名、同38名)
公務職員(同36人、同31名、同5名)
総計(1314人中、死亡1155名、生存159名)
1957年(昭和32年)4月9日、国鉄本社確定数字による
乗客には、米軍人、軍属、外国人、鉄道弘済会職員などを含む

第11青函丸、船長以下90名殉職(救助なし)
北見丸、船長以下70名殉職(救助6名)
日高丸、船長以下56名殉職(救助20名)
十勝丸、船長以下59名殉職(救助17名)

昭和29年(1954年)9月26日

14時40分、出港予定

台風15号接近中、他船からの乗客・貨物の積み替えに時間を取られたりして、出港のタイミングを逃す。本船ケテミ(天候険悪出港見合わせ)となり乗客は乗船したまま出港を待つこととなった。

18時39分、出港

函館港を出港(定刻の4時間遅れ)

19時01分、投錨(そして機関機能停止)

強風のため防波堤の外側1500メートル(函館湾内)の地点に投錨。しかし錨が効かず、函館港外の七重浜(ななえはま)に向かって流され始める。同時に船尾開口部から車両甲板への浸水がその下の機関室に及び、焚火不能となる。

22時26分、座礁

座礁(七重浜沖1100メートル、右舷に30度傾いた状態)。
やがて発電不能となり、船内に闇が訪れる。

22時43分、沈没

転覆、沈没(七重浜沖700メートル、水深わずか8mの地点)
角度135度までひっくり返った。 

青函航路(海の上のレール)

青函航路は、本州と北海道のレールを結ぶ航路(見えないレール)である。ダイヤ通り運行しなければ接続列車に影響が出る。5分以上の遅れは「事故報告書」提出の対象でさえあった。遅延の理由が、たとえ悪天候(不可抗力)のためだけであったとしても報告書の提出は免れなかった。

洞爺丸船長(渾名は天気図)

当日の洞爺丸船長(54歳)は、船長歴13年で、岸壁に船を一度もぶつけたことがないということからもわかるように、操船には伝説的ともいえる抜群の腕前を持っていた。また、若い頃から天気図を自分でかいて読んでいた。付いた渾名は「天気図」。

本船ケテミ(運命の2分間停電)-洞爺丸出港せず

14時40分、洞爺丸は定刻に出港予定であった。NHK第一、正午のニュース後の天気予報では、「台風15号は今日の夕方奥羽地方北部から北海道に達する見込み」とあり、洞爺丸船長は、津軽海峡が暴風域に入ったとしても、左半円(可航半円)であると考えていたと思われる。

台風15号マリー(後に洞爺丸台風と命名)の現在位置、進路と自船の耐荒天能力を計りにかけて船長は出港を決断した。しかし、他の船(洞爺丸より小型)が途中から函館港に引き返してきて、その乗客・貨物を移乗するのに時間がかかった。

やっと出港となったところで、船尾にかけた可動橋が上がらない。停電だった。船長は、「本船ケテミ」(天候険悪出港見合わせ)と決定する。しばらくして可動橋は上がったが、ケテミ取り消しはなかった。時に、15時10分。停電したのはわずかに2分間であった。このとき出港できていればまちがいなく青森に着いていたであろう。運命の2分間であった。

二度目のドラ(悪魔の目)

NHK午後4時のニュースでは、「台風15号は、午後3時現在、青森県の西方約100km、中心示度968ミリバール、北東へ時速110kmで進行中、午後5時頃渡島半島を通って、今夜北海道を通過する見込み」であった。

17時30分ころ、洞爺丸の出港予定時刻からすでに約3時間経っていた。今までの土砂降りの雨が嘘のように、西から南にかけて空が真っ青に晴れ上がった。〈台風の目〉だ。洞爺丸船長は確信した。他の連絡船船長や函館海洋気象台の予報官まで、だれもがそう思った。多少の吹き返しはあるかもしれないが、最新鋭の洞爺丸なら乗りきれる。

洞爺丸船長には、再開第一便としてできるだけ早くダイヤを正常に戻さなくてはならないというプレッシャーもあったであろう。こうして、船長は出港を決意した。このように、船舶の運航には船長が絶対的な権限をもっており、周囲から口をはさむことはできない、とするのが長い間の伝統と慣習であった。

ところで、だれもが見た〈台風の目〉は、実は閉塞前線のいたずらであった。本物の台風の中心は、その時、まだ間違いなく函館西方の日本海上にあった。

異常台風15号(北海道西岸を発達して北上)

毎年数多く発生する台風のうち、津軽海峡に影響を及ぼすまで北上する台風は、全体の1割程度である。それらのうち、北海道西方海上を北上して、津軽海峡が右半円(一般に危険半円と言われる)となるような台風は、さらに少なく、それまでで全体の1~2%しかなかった。いずれにしても、北海道付近に達した台風は、速度が急増して衰えるのが常であった。

しかし、台風15号は違った。15時ころ、青森県の西方海上で急速に発達、17時ころ、渡島半島西側の日本海上(函館の緯度線上)に達し、速度を急速に落として(時速100km→40km)ゆっくりと北上していった。このような台風は観測史上15号がはじめてだった。そしてこのような変化が起きていることに誰も気づいてはいなかった。

GHQ占領下の日本では気象観測網は貧弱であった。また、本格的台風と接する機会の少ない北海道で、予報官自身、台風予報の経験が少なかった。

函館湾(天下の良港だが)

天下の良港、函館にも欠点はあった。真方位207度(真南は180度)から219度(僅か12度)の角度で日本海にその口を開いており、その対岸は遠く能登半島や山陰海岸になるのだそうである。

台風15号が渡島半島西側の日本海上で発達・停滞することによって、函館湾には長時間にわたって南よりの強風が海から直接吹き込むこととなった。さらに、日本海で発生した波長の長い大きなうねりが函館湾内に押し寄せてきた。

船体構造(車両甲板上の滞水)

連絡船の車両甲板は海水面より高い位置にある。しかし、船尾開口部は解放されたままの構造であった。そしてここから海水が打ちこんできた。しかし、なぜ波の進行方向と反対側の船尾から波が打ちこんできたのか。

洞爺丸を襲った波は、波高6m波周期9秒と推定されている。まさにこの条件のときのみ、実験では海水の「滞留」現象が起きることがわかった。もし波高がこれ以上高くなっても、波周期が変われば滞水量は急激に減少する。

なお、実験の結果、このときの車両甲板の滞水量は250トン以下で、復元力には影響なしと判断された。

座礁(安全か?)-真の沈没原因は何か

投錨から3時間25分、浜に吹き寄せられ続けていた洞爺丸はついに浅瀬に乗り上げた。定年退職を1年後に控えた船長にとって初めての事故(それも大きな海難事故)には違いなかったが、これで台風との闘いはひとまず終わった。誰しもそう思った。数千トンもある連絡船が横転・沈没するなどということはまるで考えられないことだったのである。

洞爺丸が最初に座礁した地点は、海図上での水深12mである。吃水5mの洞爺丸では通常は船底が届くはずはない。ところが、ここに台風の大波でかきまわされた海底の砂が浅瀬をつくっていた。これを漂砂現象という。

この浅瀬(幅3~400m)の上で安全に座州する前に、右舷のビルジキールが海底につきささり、横転して流されていくうちに深みに落ち込んだものと思われる。このため、平坦な場所でただ単に横倒しになったのならば、横転角度90度ですむはずのところ、角度135度までひっくり返ってしまった。(ビルジキールとは、船底の両舷湾曲部の縦方向に細長く突き出した鉄板で、横揺れを数10%押さえる効果がある)

羊蹄丸(青森発、再開第一便)

翌朝、青森からの再開第一便がうそのように穏やかな函館湾に入ってきた。昨日午後4時30分出港予定だった羊蹄丸(洞爺丸と同型船)である。羊蹄丸船長は、「なぜ船を出さぬ、優柔不断で日和見だ」という乗客たちからの罵声に耐えに耐え、台風と闘った。その結果、洞爺丸船長とは異なる決断をしたのである。

洞爺丸海難審判採決(船長の責任)

1955年9月22日、函館地方海難審判庁において採決が言い渡された。
主文:本件遭難は洞爺丸船長の運航に関する業務上の過失に起因して発生したものであるが、本船の船体構造および青函連絡船の運航管理が適当でなかったこともその一因である。指定海難関係人十河信二に対して勧告する。
なお、気象台と青函局長への勧告は見送られた。

洞爺丸船長は船と運命をともにした。したがって、審判では一言も弁明する機会を与えられることなく、「職務上の過失」と主文に明記されたのである。その後の海難審判庁でのさまざまな議論の末、船長が海難で殉職した場合、判決理由のなかに船長名が出たとしても、主文に「船長の職務上の過失」の語句は使用しない旨申し合わされ、現在に至っているという。

勧告の実施

勧告の実施(船体構造、運航管理の強化による安全性向上)
車輛甲板の後部開口に水密扉を設置
異常気象時の出航可否判断は、青函局と船長の合議事項とする
その他、船体復元力の増大、気象関連部署との連携強化など

1988年(昭和63年)3月13日夕刻、最後の連絡船が函館、青森出港、80年の青函連絡船の歴史を閉じる。洞爺丸事故後から連絡船の廃止に至るまで、運航中の乗客の死亡事故は起きなかった。関係者の必死の努力によって、洞爺丸の教訓は生かされたのである。

なお同日朝、青函トンネルの営業運転開始。

参考書籍

上前淳一郎著「洞爺丸はなぜ沈んだか」文藝春秋(1980年)
松本幸四郎著「青函連絡船」朝日イブニングニュース社(1983年)
金丸大作著「写真集青函連絡船」朝日イブニングニュース社(1984年)
田中正吾著「青函連絡船-洞爺丸転覆の謎」成山堂書店(1998年)

その他の台風

伊勢湾台風(11歳)

昭和34年(1959年)9月26~27日

小学校6年生
高潮と強風によっておきた名古屋の被害の様子は自宅のテレビで見たか?

台風19号(42歳)

平成2年(1990年9月20日)

台風19号本州縦断
同じ台風19号としては、翌3年のものの方がはるかに印象が強い。

台風19号(43歳)

平成3年(1991年9月24日~10月1日)

気象要覧平成3年9月号より:
宮古島の東を北上した台風第19号は、27日の16時過ぎ長崎県佐世保市付近に上陸した。その後、速い速度で日本海を北東に進み28日8時前に北海道渡島半島に再上陸した。この台風による被害の特徴は、強風害が各地で発生し、住家・農作物に大きな被害をもたらしたことである。

広島県では強風と塩害により155万2000戸が停電した。厳島神社では、国宝の左楽房が流出し、能舞台が倒壊するなど国宝六棟、国重文九棟が損壊した。28日には青森りんごが洞爺丸台風をはるかに上回る規模の被害を受けた。

このとき私は下関にて単身赴任中、27日(金)夕方台風に追いかけられるように山陽自動車道を広島に向かった。ラジオの情報によると、私が各インターを通過する毎にそのインターが閉鎖になっていくような状況であった。広島で一番風が強かったのは、午後7時~8時ころであったか(自宅にて体験)。広島といえば、台風の中心はたいていそれてくれるものとの確信?みたいなものがあっただけにショック。

29日(日)は友人の結婚式(山口市)のため山陽自動車道をこんどは西に戻る。山々の至る所で木々が倒れているのが観察できた。挙式は、サビエル記念聖堂の予定(出席予定)であったが、1991年(平成3年)9月始め炎上したため小聖堂に変更。収容人員少ないとのことで披露宴のみの出席となる。

台風18号(51歳)

平成11年(1999年9月24日)(金)

台風18号は二十四日午前六時ごろ、熊本県北部に上陸し、周防灘に抜けた後、午前九時前に山口県宇部市付近に再上陸した。広島市中区で午前九時四十七分、最大瞬間風速四九・六メートルを記録した。

世界文化遺産の厳島神社(広島県佐伯郡宮島町)は二十四日午前十時前、台風18号の強風と荒波で、国宝の左門客(ひだりかどまろうど)神社が全壊、社殿の床板の一部がはがれ落ちた。その他、国宝、国の重要文化財に多大の被害あり。8年前の台風19号の損傷をほぼ修復し終わったときであり、関係者に与えた打撃は大きい。

当日は通勤用の車を会社に置きっぱなしにしていたので、JRにて出社。山陽本線上り広島方面最後の列車(広島着午前7時半前)で久しぶりに超すし詰め状態を体験する。広島市内で一番風と雨が強かったのは午前10~11時ころか。(社内にて体験)

ところで宮島の台風といえば、高校時代の陸上競技部の夏合宿を思い出す。砂浜にテントを張って自炊をしながら練習をしていた合宿後半に台風が近づいてきたため、大潮のときの潮位よりもさらに海面が上がってきてテントまで迫ってきたことを思い出す。

夏合宿のもう一つは高校の分校(砂谷)で実施した。どちらかが1年生(2年生)のときのことか今すぐには確認できない。

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