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サリドマイド事件(日本でも民事訴訟始まる)

 2016/08/19 日本の薬害・公害
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サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし
そして、上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
このページも詳細ページの一つです。(現在の詳細ページ数、20数ページ)

日本のサリドマイド裁判(民事訴訟)の成り行き

サリドマイド児の父母たちは、1962年(昭和37)になってサリドマイド禍の原因追究運動を始めた。法務省や厚生省を訪ねたり、大日本製薬(株)に抗議を申し込むなどした。サリドマイドと障害との因果関係を認めること、そして責任を認めることを求めた。しかし、納得のいく答えは得られなかった。後は裁判をするしか道は残されていなかった。

日本のサリドマイド裁判(民事訴訟)は、1963年6月28日(昭和38)、被害者家族が大日本製薬(株)を相手に、損害賠償請求訴訟を名古屋地裁に提訴したことに始まる。そしてその後、京都、東京などが続き全国で8地裁となった。

そのうちの東京地裁では、1965年11月の提訴以来約5年をかけて準備手続が行われ、要約調書を作成して準備手続は終結(1970年11月)した。そして、1971年2月から証人尋問が始まり、同年中には原告側の証人尋問がほぼ終了した。そうした中で、1971年11月、全国サリドマイド訴訟統一原告団(45家族)が結成された。

東京地裁における証人尋問(原告側・被告側)は、1971年2月から1973年12月まで約3年にわたって行われた。そして被告側は、1973年12月14日、因果関係と責任を全面的に認め、正式に和解申し入れを行った。

和解交渉の末、一時金、年金(物価スライド制)に加えて、財団法人サリドマイド福祉センター(仮称)の設立が決定した。それは間もなく、財団法人「いしずえ」として設立が許可されることになる。

各地で損害賠償請求訴訟が相次ぐ

それではまずは、最初の提訴(名古屋地裁)から証人尋問が始まる前(東京地裁)までの状況について、振り返ってみよう。

1963年6月28日(昭和38)、被害者家族から大日本製薬(株)を相手に損害賠償請求訴訟を名古屋地裁に提訴した(民事訴訟)。これを契機に、京都(1964年12月)、東京(1965年11月)などが続き、それぞれ被告として大日本製薬(株)のほか国を相手として加えている。

なお、東京地裁だけは、さらにセイセー薬品工業(大日本製薬(株)を含むサリドマイド製剤販売会社6社のうちの1社)も加えている(1家族のみ)。(全国8地裁:東京、岐阜、名古屋、京都、大阪、岡山、広島、福岡の各地裁)

西田公一(旧原告弁護団長・いしずえ顧問)によれば、訴訟を起こした当時の様子は以下のとおりである。(ジュリスト1974,No.577,西田p.16)

当初は各地域ごとの訴訟団の連絡はなかったものの、「間もなく各地域ごとの弁護団、原告団の連絡組織をつくりまして、東京がその中心となりまして、リーディングケースとして訴訟を進めるということになりました」。

そこで、以下では主として、東京地裁のケースを中心にまとめた。

1965年4月頃、東京の自由人権協会に対して、サリドマイド児の父母の会である「こどもたちの未来をひらく父母の会」から、とりあえず時効の中断手続きをしてほしいと依頼があった。父母の会の中には、訴訟積極派と消極派があり、訴訟に対する態度が統一されていなかったのである。

本件の時効は、国内で初めてサリドマイド禍が報道された朝日新聞スクープ(1962年5月17日夕刊)から3年と判断された。父母の会から協会に話があった時、時効は目前に迫っており、大急ぎで原告予定者のリストを作成して東京地裁宛に投函した。

そしてその後、結局訴訟と決定した。1965年11月13日に、患者家族(26家族)が東京地方裁判所に第一次の訴訟を起こした。なおこの時の確定診断は、ちょうどその時国際学会で初来日中のレンツ博士が行った。この間、自由人権協会所属の弁護士が中心となり、弁護団を編成した。

正直いって、勝てるとは思わなかった

「正直いって勝てるとは思わなかった」(いしずえ1984,p.18)。西田公一(旧原告弁護団長・いしずえ顧問)の率直な感想である。

東京地裁に訴訟を起こした1965年11月(昭和40)頃、国内でサリドマイドが原因だということをはっきり言っていたのは、梶井正博士(北海道大学医学部講師)だけだった。原告側に有利な証拠は梶井論文しかなかった。その梶井博士は、当時まだ30代の若さであり、医学会における影響力は決して大きいとは言えなかった。

そのうち、沼津の松永英(国立遺伝研究所人類遺伝学部長)が、「自分はサリドマイドが原因であるということを学問的に信ずる」と言って、弁護団に医学的な手ほどきをするようになる。そして、そのほかの協力者も少しずつ増えていった。

東京地裁に提訴以来、争点及び証拠の整理のため34回の準備手続期日が開かれた。その後裁判所が1年くらいかけて検討して、全部の訴訟記録を整理した。そして、120ページにわたる要約調書を作成して準備手続は終結した(1970年11月)。5年がかりだった。

西ドイツ・アーヘン地裁、サリドマイド刑事事件訴訟の打ち切り決定

東京地裁にて準備手続が進められている間に、西欧諸国におけるサリドマイド裁判(民事)は、次々と和解していった。

そして、1970年12月(昭和45)、西ドイツの刑事裁判も終結した。被告9名(いずれもグリュネンタール社の幹部)のうち死亡者などが続出して、裁判継続可能な被告が3名のみとなったため、国連の人権憲章の条項を適用して、長期裁判による被告の負担をなくす措置をとったためである。

ただし、この刑事訴訟は、ただ単に「判決を出さないまま終結した」のではない。アーヘン地裁は、サリドマイド仮説「サリドマイド胎芽病の原因はサリドマイドに有る」をしっかりと認めている。その点について、イギリスの新聞『ガーディアン』1970年12月19日付けは、次のように伝えている。(増山編1971,平沢pp.162-163)

「裁判所のくだした結論によれば、奇形児を発生させたことは、刑法上、重大な身体傷害をあたえる行為、ときには怠慢のための致死行為ともなる。さらに、これらの奇形および成人における神経障害がサリドマイドのためであることは明らかであり、動物実験の結果、否定的データが出ても、それでもって、この主張をくつがえすことはできない」。

「サリドマイドのメーカー、グリュネンタール社のとった措置は、”良心的かつ労をいとわぬ”製薬会社にはふさわしくなかった。会社側は、サリドマイドに疑いをもったときに、即刻、なんらかの手を打つべきであった。にもかかわらず、会社はそれを歯牙にもかけなかった ― 裁判官は、こうのべているのである」。

大日本製薬(株)、証人尋問が始まる前に、突然和解意向を表明

平沢正夫(フリージャーナリスト)は、西ドイツのサリドマイド刑事事件訴訟打ち切り決定に関して、次のように述べている。「日本の被告たちは、おそらく、この事態を正しくうけとめたにちがいあるまい。そして、表面上はともかく、心の底では、「勝ち目がない」とハラをくくったであろう」。(増山編1971,平沢p.163)

そのような状況の中で、大日本製薬(株)の社長が突然の和解表明を行った。まだ証人尋問も始まっていない段階での異例とも言える行動について、平沢は次のようにまとめている。(増山編1971,平沢p.158)

「1971年1月8日、大日本製薬の宮武徳次郎社長は、同社の11月期決算を発表するための記者会見で、とつぜん、和解の意向を表明した。これを皮きりに、和解キャンペーンが、被告側から一方的にはじまった」。

「2月16日、宮武社長は、共同被告である国側の代表(厚生省と法務省)とともに、東京地裁民事31部の園田治裁判長に、和解の申しいれをおこなった。その後、2月23日、京都地裁でも、被告側は小西勝裁判長に対し、おなじように申しいれた」。

当然、裁判は続けられた

もちろん、こうした動きで事態が解決するはずもなく、まもなく口頭弁論が開始された。⇒ サリドマイド訴訟(因果関係・責任論・損害)

サリドマイド事件全般についてのまとめ

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サリドマイド事件のあらまし
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