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レンツ警告(サリドマイドが奇形の原因である可能性が極めて高いと警告/1961年11月)

 2016/08/13 日本の薬害・公害
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サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし
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レンツ警告とは

レンツ警告とは、「サリドマイド(商品名:コンテルガン)が、1960年代初頭に西ドイツ(当時)で多発していた新たな奇形の原因である可能性が極めて高く、したがって、直ちに全製品を回収すべきである」としたレンツ博士(西ドイツ)による警告である。レンツ博士は、1961年11月15日(昭和36)、コンテルガンの製造販売元のグリュネンタール社に電話でその警告を伝えた。

レンツはここで、「コンテルガンが奇形の原因である」と断定したわけではない。この時点で、母親がコンテルガンを服用したことが確実な症例は、調査した21例中14症例しか集まってはいなかった。もちろん、サリドマイド胎芽病そのものについては、まだ良く分かっていなかった。

レンツ博士の偉大さは、サリドマイド児を自ら一例ずつ調査して回り、「奇形の原因としてコンテルガンが極めて疑わしい」ということを、短期間のうちに探り当てたことにある。そしてそれに基づき、「コンテルガンを直ちに回収すべきである」という見解を示した点にある。

レンツは専門知識・臨床経験をフルに発揮して、疫学調査を忠実に実行したのである。

レンツ警告後、彼は症例数を増やすとともに、サリドマイド胎芽病について詳細な調査研究を積み重ねていった。そして、サリドマイド胎芽病の過敏期を決定したり、四分表(2×2表)にまとめたりした。さらに、日本を含む世界各国のサリドマイド裁判で証言を繰り返し、サリドマイド仮説(サリドマイドがサリドマイド胎芽病の原因であるとする仮説)の定着に努めた。

以下、主として、日本のサリドマイド裁判(1971年11月2日、4日)におけるレンツ証人の発言(藤木&木田1974,レンツ証言pp.81-124)を中心にしてまとめた。

サリドマイド児の父・レンツ博士

レンツ博士(Widukind Lenz)は、1919年に旧東ドイツで生まれ、1995年に死去(享年76歳)した。彼はレンツ警告当時、ハンブルグ大学小児科講師(42歳)であった。

レンツは、著書『人類遺伝学(Medizinische Genetik)』(1961年)を書き上げてから、本格的なサリドマイド調査を開始した。そして、レンツ警告の翌年1962年には、ハンブルグ大学人類遺伝学教授に就任した。

レンツの詳細な調査に基づくサリドマイド仮説の立証、及び全世界のサリドマイド裁判で果たした役割はきわめて大きく、”サリドマイド児の父”と慕われている。

レンツは大変な知日家で、1965年(昭和40)の初来日以来10回前後日本を訪れている。その間、日本のサリドマイド裁判において、原告側証人として貴重な証言をした。1971年11月2日~24日(出廷回数11回)、その時は、10月21日来日~11月27日帰国。

なお、『人類遺伝学』は後に版を重ね、英語、スペイン語、日本語そしてロシア語に翻訳されている。日本語訳は、木田盈四郎監訳(1981年)『医学からみた遺伝学』講談社サイエンティフィック刊、原著第4版の翻訳である。

レンツ博士、初めてフォコメリア患者を診察する

コンテルガンが、グリュネンタール社(西ドイツ)から発売されたのは、1957年10月1日のことである。そしてその翌年には、レンツ自身初めてのフォコメリア患者を診察している。1958年8月14日生まれの新生児であった。

1960年になると、西ドイツのミュンスター大学小児科やキール大学小児科から、フォコメリアを特徴とする症例の報告が行われるようになってきた。いずれの症例も、経験豊かな専門家でさえも、今まで見たことがないというものであった。

1961年6月5日、レンツの下に奇形の一症例が知らされた。レンツはそれに対して、「この症例は過去の記載の中に正確に一致するものがないので、突然変異によるものと思うと述べている」。(増山編1971,増山pp.20-21)

レンツ博士、青年弁護士から相談を受ける(1961/6/22)

1961年6月22日、息子、姪がともにフォコメリアという青年弁護士から相談を受ける。

遺伝だろうか、それとも何か共通の環境による外因性のものだろうか。レンツは、この例も含めて、それまで彼が見聞きした同様の奇形の原因については、当時次のように考えていたと証言している。

「私はそのほかに全く健康でありますこのような家族に奇形が発生しました理由としては、遺伝子の突然変異でこれが優性的に伝わったのであろうと考えていました」。(藤木&木田1974,レンツ証言p.83)

なお、その弁護士(ハンブルグで開業)から、彼の住んでいるメンデンには同じような奇形児が多数いることを知らされた。メンデンは、レンツの父親の出身地でもある。レンツはメンデンに行く予定を立てた。しかし、当地での調査は、すでにミュンスター大学小児科によって開始されているという。

そこでレンツは、自分の住んでいるハンブルグで調査をすることにした。ハンブルグにも同様の症例があることが明らかになったからである。しかしながら、当時のレンツは『人類遺伝学』の原稿締切りなど様々な仕事を抱えており多忙を極めていた。そうした中で、小児科医その他の医師や学者などと奇形の原因について討論を重ねた。

そして、その原因は遺伝によるものではなく、「飲食物の汚染といったような、口から摂取するものに違いないと確信するに至っている」(栢森1997,p.22)。ただし、「奇形児の母親の妊娠期に服用した共通の薬剤を見出せなかったことから、その原因物質は薬剤ではない」との見方をしていた(同書,p.22)。このころ薬物を否定していた事情については、レンツ証言(pp.86-87)に詳しい。

レンツ博士、本格的な調査開始(1961/11/09)

1961年11月9日、レンツ博士は、所属する医局のすべての義務から解放してもらう。そして、助手のナップ博士と共に、奇形児の両親に対する本格的な聞き取り調査を開始した。

調査を始めてすぐに、母親がコンテルガンを服用したことがはっきりしている症例が出てきた。11月11~12日には、母親がコンテルガンを服用したことが確実な症例が複数例集まった。

それらを受けて、11月13日には、早くも”サリドマイドと奇形との間に因果関係がある”とする仮説を立てた。そして、そのことを証明するために各方面との協力関係を積極的に築いていった。

  1. 同様の奇形について症例を集めて発表をしていたミュンスター大学やキール大学の小児科教授に自分の仮説を話す。(栢森1997,p.24)
  2. 所属小児科クリニックのスタッフ・ミーティングにおいて、「同じ時期に健康な子供を生んだ方々の医薬品の摂取に関しての情報を集めてほしい」と依頼する。(レンツ証言p.96)
  3. 他科との連絡会において、「もし奇形の例があるならば、私にそれを伝えることによってこの研究を援助してほしい」と依頼する。(レンツ証言p.96)

11月13~15日、聞き取り調査のための質問用紙に、具体的な医薬品名を書き込んだ。質問用紙には、アスピリン、フェナセチン、ルミナール、そしてコンテルガンの名前を併記した。つまり、コンテルガンに疑いを持っていることが分からないように配慮した。(レンツ証言pp.96-98)。

レンツ博士の調査態度

レンツ博士は、ただ単に両親からの簡単な聞き取り調査だけで満足はしなかった。担当医師からカルテの提出を求めたり、あるいは保険会社に処方箋の提出を依頼したりした。さらには、各家庭内での医薬品保管状況を、実際に目で確かめる作業を行った。(レンツ証言pp.96-97)

レンツの精力的な調査の結果、サリドマイドを服用したことが確実な症例は、21例中14症例集まった。なお、服用が不確実な症例は、服用なしとして処理をした。

レンツ警告(1961/11/15)

レンツ警告当日(1961年11月15日)、レンツはサリドマイド製造元のグリュネンタール社へ電話をした。本格的な調査を開始してからわずか1週間後のことである。

レンツは電話で、当時西ドイツで多発していた奇形とサリドマイドとの関係について、次のような自分の考えを伝えた。

「(前略)西ドイツにおきまして奇形が増大している(中略)サリドマイドと奇形とを結びつけて今考えている(中略)明確な科学的な証明があるまで回収を待つべきではなく、その時点で薬は回収されるべきである(後略)」。(レンツ証言p.99)

会社側の回答は、今までそのようなことは聞いたことがない、数日中に社の代表をそちらに送る、というものであった。レンツは翌日、電話の内容をまとめた手紙をグリュネンタール社宛てに送付した。

レンツは、「(その当時)いかなる機会を使ってもこの問題に対して関与し、また情報を得ている仲間の者たちと話し合う機会を持ちました」と証言している。しかしながら、サリドマイド原因説にほとんどの者が傾いていたものの、それでもなお、それを事実として認定するまでには至っていない。(レンツ証言p.100)

11月18日、小児科学会地方会のディスカッションにおいて、ある”特別な薬”が奇形の原因となっているのではないか、という短い論評を発表した(レンツ証言pp.100-101)。

つまり、学会場ではコンテルガンの名前こそ出さなかったものの、「通常、公にしたという意味では、これをもって「レンツ警告」としている」(栢森1997,p.24)資料も散見される。

レンツは学会後、四つの大学病院(ケルン、デュッセルドルフ、ミュンスター、そしてボン大学)の小児科医と昼食を共にし、コンテルガンに関する奇形について、自分と同じように研究を進めてもらえるよう依頼をした。

グリュネンタール社との話し合い

11月20日、グリュネンタール社の代表の訪問を受ける。さらに、午後からはハンブルグ州政府の保健省の代表を交えて会談を行う。(レンツ証言pp.101-105)

レンツは、自分が集めた資料を見せて説明をした。会社側は、科学的な証拠となるものは何もないと反論して、その場で何らかの結論を出すことはしなかった。会社側はさらに、レンツの持っているすべての情報を手渡すように要求してきた。レンツは、調査で使った質問用紙のコピーを作成して、翌日会社側に手渡した。

11月24日、ノルトライン=ヴェストファーレン州内務省(デュッセルドルフ)において、内務省とグリュネンタール社の各代表者数名及びレンツの三者会談が行われた。(レンツ証言pp.105-108)

午前中は、20日と同様にレンツが自ら集めた資料の説明をする。午後は法的な処理をめぐる会議となり、レンツは席を外された。

午後の会議では、次の二つの措置案が出され、そのいずれを選択するかがグリュネンタール社にゆだねられたという。

  1. コンテルガンの使用を内務省が禁止する
  2. 妊娠中は摂取しないことというレッテルを薬に貼り付ける

グリュネンタール社は、レッテルを貼ることに同意した。しかし、この処置だけでは明らかに不十分である。

例えば、すでに家庭内にあるコンテルガンのすべてにレッテルを貼ることは不可能である。また、妊娠初期の段階では、だれにも妊娠したことが分からないので、レッテルを貼るだけでは警告の効果は不十分と考えられる。

西ドイツでは、販売停止(回収決定)直後に、内務省がラジオ等を通じて、コンテルガンを服用しないように、家庭内のコンテルガンをすべて一箱残らず破棄するように、国民に呼びかけたという。残薬の処理を徹底したわけである。

コンテルガンの販売中止(回収)決定(1961/11/27)

11月25日、州政府がコンテルガンの使用を禁止したとの誤報が流れる(UPI通信)。つまり、ノルトライン=ヴェストファーレン州内務省の内務大臣が、同州においてコンテルガンの使用を禁止した(理由は先天奇形の疑惑)、とUPI通信が伝える。その1~2時間後に誤報として取り消されたが、すでに全世界にそのニュースは広がってしまっていた。(レンツ証言p.108)

11月26日、西ドイツの新聞(ヴェルト・アム・ゾンターク)に特ダネが掲載される。「薬剤による奇形:世界的に流通している薬に疑惑あり」。このニュースは、欧州の他の新聞にも配信されたという。(栢森1997,p.27)

11月27日、西ドイツで回収決定、北欧諸国(スウェーデンを除く)11月30日、英国12月2日、スウェーデン12月18日がそれに続いた。

グリュネンタール社が回収に踏み切った理由としては、ちょうどそのころ(11月25日)、ウィリアム・マクブライド(オーストラリア)からも同様の奇形発生の情報がもたらされており、もはや新聞報道に抵抗できないと判断したためとされている。

なおレンツは、イギリスから複数の証拠が示されたことなどが、回収決定に結び付いたと推測している。(レンツ証言p.108)

ところで、レンツはこれら一連のメディア公開騒動には一切関わっていない。つまり、彼以外の情報提供者がいたようである。

11月30日、専門家委員会が開かれる(デュッセルドルフ)。この委員会は、ノルトライン=ヴェストファーレン州政府が招集したものであり、その目的は、元々はコンテルガン回収の是非について検討するためのものであった。州政府としては、グリュネンタール社がこんなに早く回収措置を取るとは考えていなかったのであろう。

それはともかく、この委員会では、まずレンツが最新のデータ(コンテルガンが疑われる症例81例)について発表をした。次に、11月18日にレンツから依頼を受けた四大学の医師数名が、それぞれの集積データについて解析結果を発表した。いずれも、コンテルガンが強く疑われる結果となっていた。

グリュネンタール社、50年目の謝罪 (2012/8/31)

2012年8月31日、サリドマイドの発売元であったグリュネンタール社(ドイツ)が初の謝罪声明を出した。事件発生から50年間、何と一度も謝罪したことがなかったのだそうである。国民性の違いであろうか。

サリドマイド事件全般についてのまとめ

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