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ケルシー博士(米国FDA)の活躍

 2016/08/15 日本の薬害・公害
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サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし
そして、上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
このページも詳細ページの一つです。(現在の詳細ページ数、20数ページ)

サリドマイドは米国では発売されなかった

サリドマイドは、米国ではついに発売されることはなかった。FDA(米国食品医薬品局)のフランシス・ケルシー博士が、米国メレル社の発売申請に待ったをかけ続けたためである。その間当然ながら、発売を急ぐメレル社とケルシーとの間で激しいやり取りが交わされた。

その内幕は、「ワシントン・ポスト」紙(1962年7月15日付け)の記事で初めて明らかにされた。そして、時の米国大統領ジョン・F・ケネディは、ケルシー博士を米国の救世主としてたたえ、大統領勲章「President’s Award for Distinguished Federal Civilian Service」を贈った(同年8月4日)。

米国メレル社からサリドマイド発売申請

米国のサリドマイド(商品名:ケバドン)の発売申請は、1960年9月8日、米国メレル社からFDAに提出された。同社は、グリュネンタール社(西ドイツ)のサリドマイドを導入して、カナダではケバドンという商品名で既に販売中であった。

なお、米国メレル社については、ウィリアム・S・メレル社(リチャードソン・メレル社の子会社)、あるいは、リチャードソン・メレル社(ウィリアム・S・メレル社から社名変更)とするなど、諸書によって表記方法が異なっている。私にはどれが正確であるのか全く分からないので、ここでは、米国メレル社(あるいは単にメレル社)という表記を使用した。

ケルシー博士、当初からサリドマイドの安全性に疑問を持つ

FDAでサリドマイドを担当することになったのは、フランシス・ケルシー博士(1914年カナダ生、当時46歳)である。彼女は、1960年8月1日からFDA新薬部門の医務官(医学博士)として勤務を開始したばかりだった。

ケルシーは、夫と同様に薬理学者としてのキャリアを持っていた。「十二年間在籍したシカゴ大で、抗マラリア薬の研究を続け、安全を証明するため、動物実験をいやというほど繰り返した」。そうした経験を積んだ彼女の目には、ケバドンの申請資料は「安全性を示す動物実験が不十分に見えた」。そこで「追加データを求め、承認を保留にした」。朝日新聞記事(1994年11月01日付け)

高野哲夫は、ケルシーがケバドンの発売を許可しなかった理由について、以下の三点を上げている。そして結局、ケルシーの申請却下は14回にも及んだ。(高野1985,p.58)

  • ヒトと動物実験での薬理作用の違いが不明である
  • 神経炎に対する副作用データがない
  • 妊娠時催奇形性の有無を示すデータがない

ケバドンの発売申請から1年余りが経過した時、レンツ警告(1961年11月)が出された。その時の心境を、ケルシーは朝日新聞記事(同上)で次のように語っている。

「承認を拒み続けて一年が過ぎた。「もう持ちこたえられない」と感じていたとき、「妊娠中に服用した母親から奇形児が生まれている」と会社側から製品回収の報告があった」。「大変だ、というより、もう戦わなくてすむとホッとした気持ちの方が強かった」。

なお同新聞記事は、FDA本部のケルシーの部屋で直接インタビューしたものである。彼女は当時80歳で、しかもFDAの現役部長だった。(2005年に90歳でFDA退職、2015年8月死去・享年101歳)

ケルシー、その後「英国医学雑誌」(多発神経炎の記事)に注目する

藤木&木田(1974,p.29)は、ケルシーが「後日サリドマイドを許可しなかった理由をロンドン大学における講演の中で、次のように述べている」として、その内容を引用している。

英国医学雑誌(1960年12月31日号)の中の「一つの論文の中で、サリドマイド剤の長期使用の副作用らしきもの、すなわち、多発性神経炎に注目された」。そこから「次の仮説がたてられた」として、「もしこの薬を妊娠中に服用するならば、(中略)発生中の胎児は、(中略)障害に遭い易くなるであろう」と考えたとしている。(「」内引用)

ステフェンは、上記論文に関して次のように書いている。(ステフェン,邦訳2001,pp.88-91)

「彼女が目にしたのは、A・レズリー・フローレンスのレターだった。末梢神経炎の最初の症例報告である」。ケルシーは、「(メレル社が)神経障害の証拠があることを知りながら申請書にそれを正直に記載していなかったのではないかと重大な懸念」を示した。

それと同時に、「サリドマイドは成人に神経障害を引き起こすのだから、胎児にはより影響が出やすいということではないのか」として、安全性に関する新たなデータを要求した。「記録に残っている限り最初にこの素朴な疑問を呈したのはケルシーだった」。(以上「」内引用)

なお、この英国医学雑誌(1960年12月31日号)は、船のストライキで翌年1961年2月になってケルシーの目に触れることになる。当時、イギリスやその他外国からの雑誌は、通常は航空便ではなく船便だった。

ケルシー博士の活躍により、ケバドンの発売は阻止された。しかしそれは、FDAという組織の勝利というよりは、孤軍奮闘したケルシーの個人的資質によるところが大きかった。ケルシー自身、「当時の治験制度のもとでは、こういった薬害はいつか必ず起きていた」(朝日新聞記事、同上)として、制度に欠陥があったことを認めている。

米国内では、実はメレル社による大規模な臨床試験が行われていた

メレル社は、実はケバドンの承認申請提出の1年半前から、米国内で臨床試験を行っていた。その規模は、FDAの最終的な集計(1962年8月23日付け)によれば、総計250万錠以上のケバドンが医師(1,267人)を通じて供給され、それを服用した患者数は約二万人とされている。(ミンツ,邦訳(下)1968,pp.316-317)

「当時の連邦法では、臨床試験を行うのにFDAの承認やその他の手続きは何ら必要」なく、誰の監視も受けず臨床試験を行うことができたのである。(ステフェン,邦訳2001,p.76)

臨床試験中にレンツ警告(1961年11月)が出された。FDAのラリック長官の下には、ボン(西ドイツ)の米大使館員から詳しい報告書が届けられた。しかし長官は、それをケルシー博士に知らせることはなかった。メレル社に対して緊急の回収措置を要請することもなかった。すべて同社のなすがままに任せておいた。(ミンツ,邦訳(下)1968,pp.309-310)

メレル社が行ったのは、処方医に対して「ケバドンは、妊婦および更年期以前の妊娠しうる女性に投与なさらないようにねがいます」とする警告文書(1961年12月5日付け)を発送することのみだった。(同上p.310)

しかも、その対象となった処方医の割合は全体の約一割に過ぎなかった。残り九割には何も知らされず、また臨床試験そのものも中止されなかった。「メレル社がサリドマイド製品を破棄または返還するようにとの手紙を研究者全員に出す」のは、1962年3月のことである(同上p.311)。つまり、メレル社が自社の「治験薬(製品ではない)」の回収を処方医に呼びかけるのは、レンツ警告の4か月以上後のことである。

なお、ケバドン発売の最終的な申請取り下げは、そのさらに5か月後の1962年8月3日であった(ステフェン,邦訳2001,p.93)。ただし、いしずえ1984(年表p.118)では、「1961年11月29日 メレル社申請取下げ」となっている。

ケルシーは治験の内容をどこまで知っていたのか

ケルシー博士は、米国内で大量の治験薬がばらまかれ、被害が拡大しつつあったことをどこまで知っていたのだろうか。当時の治験制度の下では、ケルシーが臨床試験の内容について全くなにも知らされていなかったとしても不思議ではない。

ケルシーは、英国医学雑誌(1960年12月31日号)を読んだ直後(1961年2月23日)、メレル社に対して、「神経病的な副作用が薬の使用にともなって認められるかどうかをたしかめるため、薬をわたされた研究者全員のリストを要求した」。しかしながら、この時のリスト提供は全く不十分なものであった。(ミンツ,邦訳(下)1968,p.311)

さらにケルシーは、メレル社が治験薬の回収を決定した後(1962年4月11日)、「「薬を提供された医師全員を記載した最近の完全なリスト」を提出し、奇形発生の危険性を最初に知ったときに、同社がそれを彼らにどう伝えたかについて、報告するようにもとめた」。(同上p.311)

後のインタビューで、彼女は次のように答えているという。「臨床試験にかかわった患者が少なくとも二万人いることがリチャードソン・メレルから知らされ(中略)これが何よりも大きな衝撃だった」(ステフェン,邦訳2001,p.96)。治験の概略を把握するにつれて、その規模があまりにも大きいことに愕然としたのであろう。

米国内でもサリドマイド児が生まれた

メレル社の治験等によって、米国内でもサリドマイド児が生まれた。上記FDAの最終集計によれば、米国内のサリドマイド服用で10人、外国からのサリドマイドでさらに7人、合わせて17人の奇形児が生まれた。その他9人の奇形児がいるが、サリドマイドの服用時期が不明、あるいは服用したのかしなかったのか証拠がはっきりしないとしている。(ミンツ,邦訳(下)1968,p.318)

その他、以下のような資料がある。「米国での被害は、臨床試験(治験)中に投与された母親から生まれた九人にとどまった」(朝日新聞記事、同上)。「米国内では11人の女性がサリドマイド児を出産している」(ステフェン,邦訳2001,p.93)。

このように、各資料間で食い違いがみられる原因の一つとして、大多数の治験医が、「薬を渡した患者の記録を取っていなかった」(ステフェン,邦訳2001,p.93)ことがあるのかもしれない。

キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法(1962年)

ケルシー個人の資質でもって、ケバドンの発売は何とか阻止することができた。しかし、制度上の欠陥は明らかであった。

サリドマイド事件当時、「連邦食品医薬品化粧品法(FDC、1938年可決)により、製薬会社は承認申請時に製品の安全性を実証しなければならない」ことになっていた。つまり、「FDAは安全でないことが判明した薬を市場から撤退させる権限を与えられ」ていた。(ステフェン,邦訳2001,pp.72-73)

とはいうものの、「当時の法律では、申請書が提出されると、FDAはその薬が申請書に記載された用途において安全かどうかを60日以内に審査し、FDAから返答がなければその薬は自動的に承認されることになっていた。そして、薬の有効性を実証するための必要事項は何もなかった」。(同上p.72)

よほどの疑義がない限り、積極的に追加データ等を求めるケースはほとんどなかったのであろう。また、「当時、FDAと製薬会社との間にはかなり親密な関係ができ上がっていた。火曜日になるとジョージタウンのレストラン「リーヴゴーシュ」には製薬会社の人間がいてFDA職員の勘定を引き受けようと待ち構えていた」という。(同上p.73)

「癒着と腐敗にまみれていたFDA」(同上p.71)を改革するため、サリドマイド事件をきっかけに、キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法(1962年)が成立した。同法によって、「新薬の有効性と安全性の検証プロセス」が標準化され、「FDAの監督権限」が強化された。山口祐司は、このことが米国の現在における「製薬産業の競争力の根拠となっている」としている。(山口2013,p.111)

サリドマイド事件全般についてのまとめ

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