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日本海海戦(東郷ターン(敵前大回頭 ― 丁字戦法))とは何か

Akimasa Net >> 団塊の世代一代記

はじめに

私は、2004/04/30(金)まで、下記文章を掲載していた。

つまり、丁字戦法(東郷ターン)について、一般的に理解されていると思われる内容をまとめたものである。その後、半藤一利・戸高一成著『日本海海戦 かく勝てり』PHP研究所(2004年)によって、「東郷ターンは丁字戦法ではなかった(Akimasa Net)」とする見解が示された。

とは言うものの、これまでの文章は、一つの基本的な立場を示していると考えるので掲載を継続することにした。なお、数値や細かい事実関係については、必要に応じて随時修正を加えていくつもりである。

連合艦隊とバルチック艦隊

連合艦隊司令長官東郷平八郎海軍大将は、日露開戦時、海軍大臣・山本権兵衛(薩摩藩出身)の推挙により就任した。少年のときに薩英戦争に参加して以来、幕末の動乱期を薩摩藩の軍艦「春日」に乗り込んで各地を転戦し、また日清戦争にも参加するなど、数多くの海戦を実体験している。

バルチック艦隊とは、バルト海にあったロシアの主力艦隊のことをいう。日露戦争の主戦場は中国大陸(満州)である。ロシア皇帝ニコライ二世は、日本軍の補給路を断つべく、戦場からはるか離れたバルチック艦隊に、日本海のウラジオストック入港を目指して地球をほぼ半周する程の大遠征を命じた。

バルチック艦隊の戦闘能力は合計約15万トン、対する連合艦隊は約21万7千トンに達していた。バルチック艦隊の長征でよごれた艦体、疲れて訓練不足の乗員に対して、整備された艦体に休養十分でよく訓練され士気高い連合艦隊乗員と、客観的にみて連合艦隊優位の状況にあったと考えてよいであろう。後は決戦の時をいかに捉えるかにかかっている。

この海戦に関して重要なポイントが二つある

1)バルチック艦隊の通過コースを的確に予測し迎撃

バルチック艦隊はどこを通ってウラジオストック入港を目指すか? 連合艦隊司令部は朝鮮半島にあって重大な決断を迫られていた。ひとり東郷だけが泰然と動かず「対馬を通る」と確信していた、と言われているが、果たしてどうか。

実は、東郷は連合艦隊を朝鮮半島から津軽海峡へ向けて北進させる命令を既に用意していた。敵艦隊は津軽海峡を通過する、と読んでいたことになる。もしその命令が実行されていたならば、がら空きの対馬海峡を”敵”艦隊は悠然と通過してウラジオストックへ入港できたであろう。そうなれば、日露戦争の結果すら変わっていた可能性がある。

<なにも情報がない以上もうしばらく留まるべき>(次の情報を得てから決断しても遅くはない)との部下(少数派)の進言を入れて作戦を留保、その場に踏みとどまった東郷の指揮官としての総合力の勝利である。たった一日の辛抱が勝敗を決した。

2)「誰もが予測しなかった」緒戦における敵前大回頭

世界の海戦史上”奇跡”といわれる丁字戦法は、海戦に臨んでから東郷が決行を決断した、とされる。そして、その創案者は、主席参謀・秋山真之(さねゆき)中佐とするのが通説だが、果たしてどうか。

丁字戦法は日露戦争前に東郷によって既に採用されていた。そして開戦と同時に実戦で何度か試みていずれも失敗、その経験を踏まえて再検討を行い本番に臨んだ。すなわち、東郷の頭の中には最初から丁字戦法しかなかったのである。なお、丁字戦法の実際の生みの親は、のちの第一艦隊兼連合艦隊司令長官・山屋他人である可能性が高い。

自ら事前準備、再検討を加える研究熱心さ、そして今この時の決断、ここでも東郷の指揮官としての資質の高さ、経験の豊富さがうかがえる。

丁字戦法とは

丁字戦法とは、縦一列に並んで進んでくる敵艦隊に対して、ちょうど「丁(てい)」の字と同じような形となって敵の先頭艦を圧迫し、火力集中が可能なキール線の正横方向の舷側砲を加えて、全力で十字砲火を浴びせる戦術である。

この丁字戦法(海外文献ではT字)は、海外でも「トウゴウターン」と呼ばれて有名になり、世界の海戦史上における”奇跡”として名を残している。こうして東郷平八郎は日本海軍の”神”になった。

日本海海戦における連合艦隊の完勝は、大砲の威力が海戦の勝敗を決する最大の要素であることを教えた。世界はいわゆる大艦巨砲主義の時代に入っていき、東郷は日本における推進派(艦隊派)のシンボルとなった。そして、戦艦「大和」起工の3年半前の1934年(昭和9)に亡くなった。戦艦「大和」は太平洋戦争が始まってから完成したが、戦争中ほとんど働き場所を得ないまま沖縄の海に没した。

日本海軍の中では、時代は日本海海戦当時のまま時計が止まっていたのかもしれない。東郷平八郎にも時代の変化に合わせたグランドデザインは描くことができなかったのである。

戦闘経過

バルチック艦隊出撃

1904年(明治37)

2月10日、日本、ロシアに宣戦布告(日露戦争)
10月15日、バルチック艦隊、軍港リバウから出撃

1905年(明治38)

5月24日、北進の「密封命令」交付

この時点で連合艦隊司令部は、バルチック艦隊は津軽海峡を通るとして、命令あり次第全艦がいつでも北進できるよう「密封命令」を交付していた。この命令は、遅くとも翌25日午後には開封、即命令実行の手はずになっていたと考えられる。

5月25日午前、三笠艦上で軍議(約1時間)

第二艦隊参謀長・藤井較一(こういち)大佐、第二戦隊司令官・島村速雄(はやお)少将の必死の進言により、翌26日正午までその場に留まることとなる 。
(出席者は、各艦隊司令官および各参謀長である。秋山真之作戦参謀ですら出席は許されなかった。)

5月26日0時05分、上海から大本営あて情報が入る

前日夕刻、バルチック艦隊の石炭輸送船等が上海港外の港に入港した。 石炭輸送船を分離したということは、今後の補給はしない、すなわち距離のある北方航路は取らないということだ。「対馬海峡」通過の可能性大ということを示す情報である。この情報は26日夜明け東郷に届き、北進中止、その場にて待機となる。

決戦当日

5月27日04時50分、仮装巡洋艦「信濃丸」、確認電報

敵、第二艦隊見ゆ

5月27日06時21分、日本の連合艦隊司令部より電報発信

敵艦見ゆとの警報に接し聯合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす(暗号)
本日天気晴朗なれども波高し(平文)
平文は、主席参謀・秋山真之中佐が付け加えたものである。

13時55分、旗艦「三笠」のマストに<Z信号旗>翻る

皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。
沖ノ島北方、敵距離1万2千m

14時05分、三笠、左へ敵前大回頭(丁字戦法)
距離8千m(14時20分、大回頭終了)

14時08分、ロシア側旗艦が第一弾を「三笠」に向けて発砲
距離7千m

14時10分、「三笠」攻撃開始
距離6千m

勝敗は戦闘開始から30~40分で決した。その後さらに、夜戦も含めて翌日にかけて第10合戦まで行い、バルチック艦隊に壊滅的な打撃を与えた。

そのほか

東郷平八郎海軍大将・連合艦隊司令長官(年齢制限のため兵学校入学せず)
山本権兵衛海軍大臣(海兵2期)
島村速雄(はやお)少将・第二戦隊司令官(海兵7期)のち元帥
藤井較一(こういち)大佐・第二艦隊参謀長(海兵7期)のち大将
秋山真之(さねゆき)中佐・主席参謀(海兵17期)のち中将

山屋他人(海兵12期)のち大将
山本五十六(海兵32期)のち元帥

参考:野村實(みのる)著『日本海海戦の真実』講談社現代新書(1999年)

2002/12/14
13日に盗用抗議、翌14日該当ページの削除対応をしていただきました
なお、その後で管理人様より二度目のメールをいただきました
「しばらくの間、私のWEBページ全てを閉鎖し反省いたします」

2002/06/14
参考文献出版元名記載ミス訂正
(福岡在住の方よりご指摘)

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