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江戸のお殿様(池田家)

 2017/03/20 団塊の世代一代記
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池田家 Edit

池田勝入斎信輝(恒興)
池田輝政(恒興二男、播磨姫路藩)、三河吉田−播磨姫路−因幡鳥取−備前岡山

輝政長男利隆
利隆長男光政(輝政の孫)
光政の弟、恒元(備前児島藩)、備前児島−播磨山崎(3代で断絶)
光政二男(岡山新田藩・鴨方)
光政三男(岡山新田藩・生坂)
輝政二男忠継(備前岡山藩)、忠継急逝後、忠雄が継ぐ
輝政三男忠雄(淡路洲本藩)、淡路洲本−備前岡山−因幡鳥取
忠雄長男光仲(輝政の孫)
光仲二男(鳥取東館新田藩・鹿奴)
光仲三男(鳥取西館新田藩・若桜)
輝政四男輝澄(播磨山崎宍栗藩)、輝澄の家臣団騒動にて除封
輝澄の子(播磨福本藩)
輝政五男政綱(播磨赤穂藩)、政綱に嗣子なく一時除封
輝政六男輝興(播磨佐用藩)、播磨佐用−播磨赤穂(輝興の乱心にて除封)
池田長吉(恒興三男)、因幡鳥取−備中松山(3代で断絶)

関ヶ原の役(1600年)の戦功により、池田輝政(てるまさ、池田勝入斎信輝(恒興)の二男)が、播磨一国52万石で姫路城に入る。また、恒興三男の長吉(ながよし、輝政の弟)が、因幡国岩井・邑美・八上郡6万石で鳥取藩を立藩する。

輝政は、徳川家康の二女督姫(とくひめ)を迎え入れ(1594年)、忠継(ただつぐ)、忠雄(ただお)、輝澄(てるずみ)、政綱(まさつな)、輝興(てるおき)が生まれている。輝政嫡男の利隆(としたか)にとっては異母弟ということになる。しかし、家康の外孫にあたる彼らは、何かにつけて優遇されている。例えば、忠継は小早川秀秋(無嗣断絶)の後を受けて、岡山藩にわずか5歳で封じられている(1603年)。

輝政急死(1613年)に伴い、姫路藩は嫡男利隆(池田宗家)が継ぐ。その時、異母弟(輝政二男)の忠継(岡山池田藩主)に、播磨国西部の佐用・宍粟・赤穂三郡内のうち13万石が分与された。それと同時に、輝政三男の忠雄は、姫路藩の属領となっていた洲本藩を再度立藩する。

しかし、忠継が早世(1615年)したため、忠雄(忠継の次弟)が洲本藩から移り岡山藩を継ぐ。この時、忠継・忠雄の弟3人が、播磨国佐用・宍粟・赤穂三郡でそれぞれ立藩する。これらの地域は、利隆から忠継に分与されていたものである。しかし、これら3家はいずれもすぐに絶えてしまい、わずかに播磨福本藩1万石の名前が残るのみである。

姫路池田藩の3代藩主・光政(みつまさ、利隆の嫡男)は、利隆死去(1616年)に伴い家督を継ぐ。しかしながら、幼少(8歳)を理由に、翌1617年に播磨姫路藩から因幡鳥取藩へ転封される。そして、因幡鳥取藩の池田長幸(長吉の長男、2代藩主)が備中松山藩へ転封となる(長吉から数えて3代で廃絶)。

そしてその後、今度は、備前岡山藩の池田光仲(みつなか、忠雄の嫡男)がわずか3歳で家督を継ぐことになった時(1632年)、ふたたび幼少を理由に国替えが行われた。このときは、幼い光仲が因幡鳥取藩主となり、入れ替わりに光政(光仲の従兄、ともに輝政の孫)が備前岡山藩主となる。

こうして、池田宗家(光政系)が岡山藩、家康の血を引く池田家(光仲系)が鳥取藩に落ち着くこととなり、その支配は幕末まで続いた。

なお、岡山池田藩3代藩主の光政は、1948年に弟の恒元(つねもと)を藩祖とする児島藩を支藩として立藩している。しかし、すぐに播磨山崎藩に移った恒元から数えて3代目が夭折したため断絶している。

播磨姫路藩、1600年〜1617年(110池田) Edit
因幡鳥取藩、1617年〜1632年(110池田) Edit
備前岡山藩、1632年〜幕末(110池田) Edit

藩祖・池田輝政、池田勝入斎信輝(恒興)の二男
関ヶ原の役の戦功により、姫路城に入る。

輝政の孫の光政(3代藩主)の時、幼少(8歳)を理由に播磨姫路藩から因幡鳥取藩へ転封される。池田宗家の鳥取藩転封に伴い、鳥取藩2代藩主の池田長幸(輝政の弟である長吉の長男)が備中松山藩へ移封される。

そしてその後、今度は、備前岡山藩の池田光仲(輝政の孫、徳川家康の外孫)がわずか3歳で家督を継ぐことになった時、ふたたび幼少を理由に国替えが行われることになった。そしてこの時には、光仲が因幡鳥取藩に移り、入れ替わりに光政(池田宗家)が備前岡山藩に移る。

因幡鳥取藩、1600年〜1617年(200池田) Edit
備中松山藩、1617年〜1641年(200池田) Edit

藩祖・池田長吉、恒興三男(輝政の弟)
2代藩主長幸(長吉長男)のとき、池田宗家の因幡鳥取藩転封に伴い、備中松山藩へ移封される。しかし、長吉から数えて3代目で嗣子なく除封。

備前児島藩、1648年〜1649年(111池田) Edit
播磨山崎藩、1649年〜1678年(111池田) Edit

藩祖・池田恒元(光政の弟、輝政の孫)
児島藩は、岡山池田藩(3代藩主光政)の支藩として立藩される。しかし、わずか1年で廃藩(領地は岡山藩に還付)となる。理由は、藩祖・恒元が播磨山崎藩へ転封となったためである。

山崎藩の藩祖は、池田輝澄(輝政四男)である。輝澄は家臣団の騒動に巻き込まれて(池田騒動)改易となり、その後は、松平(松井)氏が領有していた。しかし、それを継いだ二度目の山崎池田藩も長くは続かず、恒元から数えて3代目が夭折したため断絶。以降本多氏が領有。

岡山新田藩・鴨方、1672年〜幕末(112池田) Edit
岡山新田藩・生坂、1672年〜幕末(113池田) Edit

ともに、岡山池田藩の支藩である。
藩祖・池田政言(光政の二男)、鴨方(かもがた)
藩祖・池田輝録(光政の三男)、生坂(おうさか)

備前岡山藩、1603年〜1615年(120池田) Edit
淡路洲本藩、1613年〜1615年(130池田) Edit

藩祖・池田忠継(池田輝政の二男)、岡山藩
藩祖・池田忠雄(池田輝政の三男)、洲本藩

忠継、忠雄ともに徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。したがって、輝政嫡男の利隆(池田宗家)とは異母兄弟にあたる。

岡山藩には、小早川秀秋(無嗣断絶)の後を受けて、忠継がわずか5歳で封じられた。輝政の嫡男・利隆(姫路池田藩主)は、父の輝政急死(1613年)に伴い、異母弟(輝政の二男)の忠継(岡山池田藩主)に、播磨国西部の佐用・宍粟・赤穂三郡内のうち13万石を分与した。

洲本藩は、姫路藩の属領となっていたものを、輝政の死去に伴い再度立藩したものである。洲本藩は、藩祖の池田忠雄が兄忠継の遺領(岡山藩)を継ぐことになり廃藩、一時収公された。そして同年、阿波徳島藩主に与えられ、その後、徳島藩家老稲田氏が淡路城代兼仕置職として居住した。

備前岡山藩、1615年〜1632年(130池田) Edit
因幡鳥取藩、1632年〜幕末(130池田) Edit

備前岡山藩は、池田忠継(岡山藩主)急逝に伴い、弟の忠雄(洲本藩主)が継ぐ。そして、その忠雄の死去に伴い、嫡男の光仲がわずか3歳で家督を継ぐことになった。その時、光仲の幼少を理由に、光仲と光政(光仲従兄の因幡鳥取藩主)を交代させる国替えが行われた。
この時から幕末まで、光仲系池田氏が因幡鳥取藩を支配することになる。なお、鳥取池田藩(光仲系)は家康の血筋を引いており、宗家の岡山池田藩(光政系)よりも石高は高く破格の扱いを受けている。

鳥取東館新田藩・鹿野(鹿奴)、1685年〜幕末(131池田) Edit
鳥取西館新田藩・若桜、1700年〜幕末(132池田) Edit

ともに鳥取池田藩の支藩である。
藩祖・池田仲澄(光仲の二男)、鹿奴(しかの)
藩祖・池田清定(光仲の四男)、若桜(わかさ)

播磨山崎藩、1615年〜1640年(140池田) Edit
播磨赤穂藩、1615年〜1631年(150池田) Edit
播磨佐用藩、1615年〜1631年(160池田) Edit

藩祖・池田輝澄(池田輝政の四男)、山崎藩
藩祖・池田政綱(池田輝政の五男)、赤穂藩
藩祖・池田輝興(池田輝政の六男)、佐用藩

3人とも忠継(岡山藩主)、忠雄(洲本藩主)と同じく徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。つまり、輝政嫡男の利隆(池田宗家)の異母弟にあたる。

そして、3人同時に、早世(1615年)した兄忠継(岡山藩主)の所領から分与、立藩している。これらの所領(いずれも播磨国)は、輝政死去(1613年)に伴い、利隆から忠継に分与されていたものである。

なお、忠継亡き後、岡山藩そのものは忠雄(洲本藩主)が継ぐ。

播磨福本藩、1662年〜1665年(140池田) Edit
播磨福本藩、1868年〜幕末(140池田) Edit
播磨赤穂藩、1631年〜1645年(160池田) Edit

池田輝澄(山崎藩主)は、弟の輝興(佐用藩主)の赤穂藩転封に伴い廃藩となった佐用藩を吸収した。そして、新旧家臣団による騒動(池田騒動)に巻き込まれて改易された。

その間に、岡山池田家は次兄忠雄が継いだ後、その子光仲のとき因幡鳥取藩に転封となっている。輝澄は改易後、甥である鳥取藩主・池田光仲預かりとなり、鳥取藩内の鹿野において堪忍料1万石を与えられた。

輝澄の後は子の政直が継ぎ、輝澄の死後に播磨福本藩(1万石)を立藩する(鳥取藩の支藩的立場)。しかし、政直は嗣子なく没したため、弟二人に所領を分割、それぞれ交代寄合および旗本(ともに1万石以下)となる。そして、幕末にふたたび福本藩立藩(1万石余)。

輝澄改易後の山崎藩は、松平(松井)氏が領有した後、一時天領となる。その後すぐに、池田恒元(光政の弟)が備前児島藩(岡山池田藩の支藩)から入る。しかし、恒元から数えて3代目で嗣子なく除封、以降本多氏が領有。

池田政綱(赤穂藩主)には嗣子なく一時除封となる。すぐ後に、弟の輝興(佐用藩主)が遺領を継承して赤穂藩主となる(佐用藩は廃藩)。ところが、輝興突然の乱心にて所領没収、宗家(甥の岡山藩主・池田光政)お預けとなる。

赤穂には浅野氏が代わって入り、後の「忠臣蔵」へとつながることとなる。

なお、佐用藩は輝興一代で廃藩となり、旧領は兄の輝澄(山崎藩主)が継いだ。これが池田騒動(新旧家臣団の対立)のきっかけとなっていく。

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