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照葉樹林文化

 2017/03/17 団塊の世代一代記
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照葉樹林帯とは

東アジアの植生分布は、長江(揚子江)流域を基点として、三つに大別できる。すなわち、常緑広葉樹林帯(南側)、落葉広葉樹林帯(北側)、および乾燥地帯(西側)の三つ である。

そのうち、常緑広葉樹林帯(暖温帯)のことを特に<照葉樹林帯>と称している。この地域が、アラカシで代表されるような照葉樹林(常緑のカシ類のほか、シイ、タブ、クス、ツバキなどのように葉の表面に光沢のある常緑樹)でおおわれているからであり、モンスーンの影響を受けて豊かな森林を形成している。

照葉樹林文化「論」によれば、この照葉樹林帯の核心部分で成立した独自の農耕文化およびそれに付随する種々の文化要素が、中心部からはるか離れた極東の島である日本列島(南西部)にまで伝播しており、その結果、照葉樹林帯全域にわたって数多くの共通する文化要素が分布する、としている。一種の壮大な作業仮説である。

照葉樹林帯を通って、古くから日本列島にはいくつかの農耕文化がもたらされた。イモ類の半栽培や水さらしの技術(縄文前期)、雑穀・根栽型の焼畑および陸稲、そして水田稲作(縄文晩期後半)である。またこれらと共に一連の文化要素がセットでもたらされた。

照葉樹林帯とナラ林帯

日本には、照葉樹林帯という<南>からの道に加えて、環日本海に広がるナラ林を基盤とするナラ林文化という<北>からの道がある。縄文時代は一貫して東日本のナラ林帯の方が、西日本の照葉樹林帯よりも優位に立っていたことは間違いない。縄文時代の成立と発展におけるナラ林文化の影響を無視することはできないだろう。

日本の民族文化(基層文化)の形成を考えるときには、

縄文時代の始まり(ナラ林文化の関与)
照葉樹林文化の進出と展開(雑穀・根栽型焼畑農耕)
水田稲作の受け入れ(縄文時代晩期後半)
国家体制の確立(古墳時代)とそれらに伴う文化要素の影響度、について検討する必要がある。
水田稲作をもって初めて日本の基層文化とみなす考え方では片手落ちであろう。

照葉樹林帯(常緑広葉樹林帯)の範囲は、ネパール・ヒマラヤの中腹(高度1500~2500m)から、ブータンやアッサムの山地、ミャンマー(ビルマ)北部を中心とする東南アジア北部の山地、さらに中国の雲南・貴州の高地をへて江南の山地に至る。そして長江流域を含んでその南側から台湾高地、南西諸島さらに朝鮮半島南端部から西日本一帯(および本州中部から関東地方の太平洋岸)まで延びている。

落葉広葉樹林帯のことは特に<ナラ林帯>とよんでいる。それら森林帯が主としてコナラ亜属で構成されているからである。ここでブナ林帯とよばないのは、東アジアの大陸側にブナがほとんど分布していないからであるという。

ナラ林帯はさらに<暖温帯>落葉広葉樹林帯と<温帯>落葉広葉樹林帯の二つに分けて考えた方がよい。

暖温帯落葉広葉樹林帯は、淮河から遼東半島に至るいわゆる華北一帯(北側に北京がある)で、中心には黄河が流れており、”リョウトウナラ”の分布域である。リョウトウナラは乾燥にやや強く温暖な地域に適する樹木である。

温帯落葉広葉樹林帯は、東北日本およびユーラシア大陸の日本海側(ハルピン、瀋陽、朝鮮半島のピョンヤン、ソウルより東側)に広がっている。

大陸側での構成種は、モンゴリナラ(日本のミズナラによく似る)をはじめ、シナノキ、カバノキ、ニレ、カエデなどで、温帯落葉樹林の指標となるブナは優先種とはなっていない。その理由は、乾燥度が高い、正確にいえば大陸度が高いためとされる。これに対して東北日本では、ブナ、ミズナラ、コナラ、クリなどが主体となる。

なお、それらナラ林帯の東側(沿海州)から北側(アムール川の下流域)までを含めて、自然景観からすると広い意味でのナラ林帯と考えることができる という。

結局、ナラ林帯の範囲は、環日本海地域(朝鮮半島中・北部、中国東北部、ロシア沿海州、アムール川下流域、サハリン、北海道、東北日本)に加えて華北一帯ということになる。

日本文化の東と西

日本列島の植生は、中部地方を境として西日本(照葉樹林帯、暖温帯)と東日本(ナラ林帯、温帯)で異なり、両者はそれぞれユーラシア大陸の南と北に連なっている 。

このような南北のルートを通して、それぞれの文化要素が時代を超えて何回も日本列島に流れ込んできた結果、日本列島内の西と東では特性の異なる文化要素が分布することになったのである。

例えば、方言や味覚の違いなどはわかりやすいものの一つであろう。こうした違いは細石刃文化(旧石器時代、縄文時代直前)の時代にはやくも現れており、縄文、弥生、そして古墳時代から現代まで続いている。

なお東西を二分するような違いがより鮮明になるのは縄文時代晩期であり、その当時の日本列島は、突帯文文化圏(西日本)と亀ヶ岡文化圏(東日本)に大別することができる。そして、その境界線は中部地方であり植生の違いと一致している。

縄文文化(東日本)はナラ林文化

日本の民族文化(基層文化)の形成を考えるとき、まず第一の画期となるのは縄文文化の成立である。縄文文化には、北方系の特色(深鉢式に縄目文を持つ土器など)が色濃くみられることから、東北アジアのナラ林帯に成立したナラ林文化の影響が東日本にも及んだ可能性が考えられる。

縄文時代は東日本の時代である。人口密度でみると圧倒的に東日本の方が高いのである。例えば縄文中期における100平方キロメートル当たりの人口は、関東地方300人、中部地方260人に対して、近畿地方8人、中国地方4人だという(小山修三教授、国立民族学博物館)。また縄文遺跡の8割は東に分布するともいう(山内清男氏)。

その理由として、ナラ林帯の方が照葉樹林帯よりも食糧資源が豊富であることがあげられる。狩猟採集社会では自然の恵み豊かな方が有利となる。

縄文時代の主要食糧であるクルミ、トチ、ナラ、クリの実などは、圧倒的にナラ林帯に多い。ここで、脂質に富むクルミが多いことは重要な要素である。サケ・マスなどの動物性たんぱく質とともにバランスのよい食事をとることができる。東日本の縄文人は、「成熟せる食糧採集民」であった。

照葉樹林文化の進出(プレ農耕段階)

気候の温暖化に伴い、日本列島の西部に照葉樹林文化(採集段階)が進出してきた。第二の画期である。時期は縄文時代前期ころとされている。

そこでは、すでにウルシ(鳥浜貝塚)が利用されており、縄文時代晩期には本州最北端(亀ヶ岡遺跡など)に達した。また、クズ、ワラビ、サトイモ、 ヤマノイモ、ヒガンバナ、ウバユリなどイモ類の半栽培が行われた。これら半栽培植物の多くはアジア大陸の照葉樹林帯が起源と考えられている。その他、ヒョウタン、エゴマ、リョクトウ、シソなどの小規模な栽培(インド、アフリカのサバンナ地帯起源)が行われた。

西日本では非常に多くの打製石器が出土している。ドングリ、トチなど堅果類の実や野生のイモ類を水でさらし、澱粉を濃縮して利用していたものと思われる。いずれにしても、西日本では狩猟や漁撈も行ったであろうが、植物への依存度が大きい生活様式をとっていた可能性が高い。

縄文焼畑農耕(雑穀・根栽型)

照葉樹林文化のクライマックスを支えた最も重要な生業は焼畑農耕である。そしてそれは山と森を生活の舞台とした文化であった。

日本各地の山村では、かつてアワ、ヒエ、ソバなどの雑穀や豆類、サトイモなどのイモ類を主作物とする「雑穀・根栽型」の焼畑がひろく営まれていた。その時期は昭和35年(1960年)ころまでで、範囲は九州、四国あるいは中部の山地に及んでいた。

日本における焼畑の技術、構成作物の特色、あるいは畑作儀礼の特徴などをくわしく調べると、アジア大陸の照葉樹林帯のそれと一致する点が少なくないことが分かってきた。

焼畑とともに関連する文化が一つのセットになって大陸から伝わってきたことが分かる。時期は水田稲作農耕が展開するかなり前のことで、こうして縄文農耕が始まった。

飲み茶の慣行
ウルシを用いる漆器製作
マユから絹を作る技法
麹を用いるツブ酒の醸造
味噌、納豆など大豆の発酵食品
コンニャクの食用慣行
モチ種の穀物の開発と利用、およびその儀礼的使用
共通の神話、説話(オオゲツヒメ型神話、洪水神話、羽衣伝説その他)
歌垣、山上他界、サトイモの儀礼的使用、八月十五夜
儀礼的狩猟、粟の新嘗その他の習俗、など

ここで特に注目に値するのは、日本列島に隣接した地域(長江中流域の江南山地や台湾山地など)では、陸稲が焼畑の主作物から欠落している例が多いことである。 同様の傾向は、西日本各地の山地における焼畑(昭和35年頃まで存在)でもみられたという。

陸稲を含まない古いタイプの照葉樹林焼畑農耕が存在した可能性がある。ならば陸稲が日本列島に入ってきた時期はいつか。そしてそれはどの様な場所で栽培されたのか。たとえば、川の河川敷や湖の湖畔のような土地を火入れによって開墾していたのであろうか。 今後の研究成果に期待したい。

なお、農耕が始まったからといって人口支持力がそれほど向上したわけではない。縄文時代を通して人口密度は圧倒的に東日本の方が高い状態が最後まで続いたのである。

水田稲作の始まり

イネは他のイネ科作物に比べて、味よく穀粒が大きく調理しやすいなど多くの利点をもっている。このようなイネが照葉樹林帯の中で選択され、水田稲作に生業の基盤をおく「稲作文化」として分離・独立していった。

日本に水田稲作が伝わるのは縄文時代晩期後半であり、そのルートとしては、大陸から直接の場合に加えて朝鮮半島南部経由の2つが考えられている。このとき、当然ながら水田稲作に伴う新しい文化要素が大陸からもたらされた。第三の画期である。

しかしながら、日本の水田稲作文化(弥生文化)は、日常的生活文化の多くを縄文文化の伝統から引き継いだとみることができる。ただし、この場合の縄文文化とは、照葉樹林焼畑農耕の影響を受けていた西日本の縄文文化のことをいう。共に照葉樹林文化の中から発生した文化であり違和感がなかったのであろう

焼畑農耕の諸特色に加えて
ナレズシづくりの慣行
鵜飼の習俗
正月の来訪神
焼米の製作と利用
高床家屋
その他の文化的特色が加わる

このとき照葉樹林帯の外から受け入れた文化要素としては、どちらかといえば非日常的で象徴性の高いものが多いといえよう。例えば、鏡や武器類(銅剣・銅矛・銅戈など)、ガラス製品(玉や管玉)、支石墓(ドルメンの一種)や卜骨(鹿の骨などを焼く骨占い)などである。

このようにして成立した弥生文化は、「稲作文化」のセットとして全国に拡大してゆくことになる。ただしその浸透速度は従来考えられていたほどではなく、見渡す限りの水田が日本全国に展開するのは近世以降という説もでている。

弥生時代の始まりは500年さかのぼる可能性がある?

放射性炭素(C14 )年代測定法を用いた最近の研究成果によって、弥生時代の始まりが500年もさかのぼる可能性がでてきた。2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表されたもので、各方面で大反響を巻き起こしている。

参考資料

日本文化の基層を探る-ナラ林文化と照葉樹林文化-
佐々木高明著、NHKブックス1993年
照葉樹林文化の成立と現在、田畑久夫著、古今書院2003年
国立民俗歴史博物館HP
図2-1、東アジアの植生とナラ林文化・照葉樹林文化の領域、P.053
図6-11、東アジアにおけるナラ林の分布、P.216

2004/02/20、追加訂正
2003/08/13、初出

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