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夏の甲子園

 2017/01/20 団塊の世代一代記
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伝説の延長18回決勝戦(甲子園)、再現される

延長18回引き分け再試合(1969年)

昭和44年(1969年)8月18日、「延長18回」引き分け再試合(伝説の決勝戦、松山商業VS三沢高校)は私に強烈な印象を今でも残している。私は甲子園に行ったことはない。もちろん試合に出たことなどないし球場に足を運んだこともない。だからこの試合はテレビで見た。

松山商業(愛媛県)・井上明、三沢高校(青森県)・太田幸司、両投手の投げ合いを軸とした両チームの攻防はすざましく、お互い絶体絶命のピンチをしのぎながら、ついに「0-0」のまま延長18回、4時間16分の死闘は終わった。

翌日の再試合では、松山商業は井上・中村哲の両エースの継投、対する三沢高校は大黒柱太田の4連投(実質5連投)に頼らざるを得ず、地力に勝る松山商業が「4-2」で勝利をおさめ、深紅の大優勝旗を手にした。

そして、太田幸司は”最も美しい甲子園の敗者”となった。

松山商業-三沢高校の試合再現(1999年)

平成11年(1999年)11月6日午後、甲子園球場で、松山商業-三沢高校の試合が再現された。当時の両校ナインがそれぞれ母校のユニフォームに身を包み、30年ぶりに再会したのである。

井上・太田の両エースは5回までを投げ、その時点では「5-7」で三沢高校2点のリードであった。しかしその後、松山商業が「13-8」と逆転し、またしても勝利を得た。

この試合の「MVP」は、松山商業・三好威徳マネジャー(当時)だった。守っては、6回から井上投手をリリーフして2イニングを完璧に押さえ、打っては、勝ち越しのタイムリーヒットを放ったりと大活躍した。30年前はベンチ入りできなかった彼の言葉は、「30年間、この日を待っていたんです!」であった。

なお、深紅の大優勝旗は未だ白河の関を越えたことがない。

太田 幸司(おおた・こうじ)

1952年1月、青森県生まれ。
1969年夏、甲子園準優勝(三沢高校エース)
1970年、近鉄入団。その後、巨人、阪神に移籍する。
1984年、引退。通算58勝85敗4セーブ。

参考資料

田澤拓也(ノンフィクション作家)の次の2点

最も美しい甲子園の敗者、敗因の研究(日本経済新聞社刊)1999年収載
30年目の再々試合 熱く、日本経済新聞、1999.11.12(金)文化欄

広島県出身のプロ野球選手

第46回全国高校野球選手権大会広島県予選<準決勝>

私が高校野球の公式試合を実際にグランドで見たのは、後にも先にも、あの一試合のみである。昭和39年(1964年)7月29日(広島市民球場)、東京オリンピック開幕直前の暑い夏の日のことであった。

我が廿日市(はつかいち)高校は、広陵高校に1-9と完敗した。エースのマウンドを踏んでいたのは、若き日の山本浩司(改名前)である。敵は強く浩司もついに力尽きて試合の途中一時マウンドをゆずった。もしかしたら甲子園、ということで私も応援にかけつけたのだったが、彼は再びマウンドに立ちみごと散った。

山本浩二さんは、小学校、中学校、そして高校と私の1年先輩である。私は、中学に入ったとき、クラブ活動を陸上部にしようか野球部にしようかまよった。結局は陸上部にしたのだが、もし野球部に入部していれば、山本浩二さんといっしょに試合に出る機会があったのかもしれない。

中学時代の部室は、陸上部と野球部は隣り合っていたので、浩二さんの顔は良く知っていた。高校では、クラスマッチ(学級対抗で学年には関係なく対戦した)のバレーボールで、浩二さんのするどいスパイクを受けたこともある。

広島県高校野球界ではまったく無名の県立普通科高校に、あわや甲子園の夢を与え、法政大学でも、無名に近い一般部員から「法政三羽がらす」と言われるまでに成長、出身地の広島東洋カープからドラフト1位指名され、入団後は、年々少しづつ地道に個人打撃成績を上げてゆき、昭和50年(1975年)の球団史上初のリーグ優勝の立役者となってみごと期待に答え、その後さらに日本を代表する選手に飛躍、世界の王からホームラン王を奪うなどして、ついに永久欠番の栄誉を獲得した先輩が身近にいた喜びを、今この年になってひしひしと感ずる。

さて、廿日市高校野球部にはもう一人強い選手がいてショートを守っていた。廿日市のお寺さんの方(廿日市中学出身)で、中学時代は浩二さん(五日市中学出身)とはお互いライバル関係にあったそうである。後年、私の父(次男)が亡くなり墓を近くに移すことになって、宗派が同じということでお世話になろうとは、その時は全く想像もしないことであった。縁とは不思議なものである。

なお、その後も我が母校はいまだ決勝戦(広島県予選)まで勝ち残ったことはない。

山本浩二(やまもと・こうじ)

広島東洋カープ、元選手・監督
ミスター赤ヘル(永久欠番、背番号 8)
日本プロ野球名球会会員(2339安打)

通算成績 (出場試合数 2284)
打数8052、安打2339、打率2割9分0厘
本塁打536、得点打1475、得点1364
三振1123、四死球1230
盗塁231、失策39

タイトル・表彰等
最優秀選手(MVP)、2回(昭和50、55年)
首位打者、1回(昭和50年)
本塁打最多打者、4回(昭和53、55、56、58年)
得点打最多打者、3回(昭和54~56年)
ベストナイン、10回(昭和50・52~59・61年)
ゴールデングラブ賞、10回(昭和47~56年)
(昭和47年制定時はダイヤモンドグラブ賞、61年より改称)
月間最優秀選手賞(月間MVP)、5回
日本シリーズ優秀選手賞、1回(昭和59年)
日本シリーズ敢闘賞、1回(昭和50年)

オールスター戦、14回出場(昭和48~61年)
日本シリーズ、5回出場(昭和50、54、55、59、61年)
日本一、3回(昭和54、55、59年)

昭和21年(1946年)10月25日
広島県佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区五日市)に生まれる
5~6歳のころより兄とともに草野球を始める
(稲刈り後の田んぼグランドなどを使用する)

昭和28年(1953年)4月
五日市町立(現・広島市立)五日市小学校入学(ソフトボール)
5年生のころ、クラスチームで4番・サードで活躍
昭和34年(1959年)4月
五日市町立(現・広島市立)五日市中学校入学(軟式野球)
野球部入部、1年生でレギュラー入り、ピッチャーで4番
2年生の時、佐伯郡中学校軟式野球大会優勝(エースで4連投)
昭和37年(1962年)4月
広島県立廿日市(はつかいち)高校入学(硬式野球)
野球部入部、1年生の時からエースのマウンドを踏む
2年生秋の新チーム結成時、部員数9名のみ(補欠ゼロ)
3年生の時、鶴岡一人南海ホークス監督が高校に視察に来る

昭和39年(1964年)7月29日(高校3年)
第46回全国高校野球選手権大会広島県予選<準決勝>
広陵高校に1-9で完敗、甲子園の土を踏めず
しかし、ベスト4は廿日市高校始まって以来の快挙であった

昭和40年(1965年)4月、法政大学入学
法政大学入学とともに野球部入部。しかし、合宿入り(エリート・コース)は許されず、下宿先から通う一般部員であった。 1年生の時の出番は、春のリーグ戦終了後の新人戦トーナメントのみ。初めてのマウンドでの結果はおもわしくなく、投手としてやっていく自信を失う。

2年生春のリーグ戦終了後、打者転向。新人戦トーナメントで外野手デビュー。秋のリーグ戦は先発出場。リーグ戦終了後、「合宿入り」する。大学3年秋、4年春と連続して東京六大学リーグ戦優勝。

最終学年(法政の黄金期)では、富田、田淵と共にクリーンアップの一角を占め「法政三羽がらす」と言われるまでになる。春のリーグ戦で初めてベスト9に選出され、「ひょっとしたらプロでやっていけるかもしれない」と思うようになる。秋のリーグ戦は、優勝こそ逃したが、個人打撃成績はさらに満足のいくもので、プロ入りへの自信を深めた。

昭和43年(1968年)11月12日
ドラフト会議で念願の広島東洋カープに1位指名される
(法政三羽ガラスの結果は以下の通り)
3番、富田 勝(南海ホークス、昭和43年ドラフト1位指名)
4番、田淵 幸一(阪神タイガース、同上)
5番、山本 浩司(広島東洋カープ、同上)

昭和44年(1969年)4月12日
対中日戦、6番・センターで先発出場。プロ野球デビュー
昭和45年(1970年)12月17日
結婚
昭和46年(1971年)3月
背番号「8」← 「27」に変更
昭和48年(1973年)7月21日
オールスター初出場
昭和49年(1974年)
シーズンオフに改名「浩司 → 浩二」
12月、広島東洋カープ監督にルーツが就任、日本プロ野球史上初の外国人監督誕生。球団カラーを「赤」とし、ユニフォーム変更。背番号など赤字、ヘルメットも赤色(赤ヘル)

昭和50年(1975年)
5月3日、ルーツ退団、新監督に古葉竹識が就任
7月19日、オールスター第1戦、2打席連続本塁打を記録。衣笠も同様に連続本塁打、2人で4本塁打7打点。その後、この二人を中心にペナントレースでも「赤ヘル旋風」を巻き起こす。
10月15日、球団史上初のセ・リーグ優勝(球団創設26年目)、対巨人戦4-0(後楽園球場)立役者となった山本はお立ち台の上で男泣きに泣いた
10月21日、公式戦閉幕。首位打者(初)打率3割1分9厘、MVP(初)、ベストナイン(初)
11月2日、日本シリーズでは阪急に敗れる
敢闘賞受賞(本塁打2本)

昭和54年(1979年)
11月4日、球団史上初の日本一(対近鉄)
日本一2回目(昭和55年2連覇)、3回目(昭和59年)
昭和61年(1986年)
10月27日、日本シリーズで惜敗、3勝4敗1分(対西武)
10月28日、現役引退発表(広島グランドホテル)
12月、NHK野球解説者に就任

昭和63年(1988年)
10月21日、広島東洋カープの監督就任発表

鶴岡一人(つるおか・かずと)

鶴岡一人は広島県呉市の出身(五番町小学校卒)である。

広島商-法政大を経て、南海ホークス(現・福岡ダイエーホークス)入団。選手としてはもちろんのこと監督として特に目覚しい活躍をする。東の「ドン」(元巨人軍監督・川上哲治)に対して、西の「親分」の愛称で親しまれた日本プロ野球界を代表する監督であった。

「ゼニの取れる選手になれ」といった鶴岡自身のことば、あるいは「がめつい野球」という評価からは前近代的な野球を想像しがちであるが、ファームの充実、スコアラーの採用など、その近代化のためにつくした功績は決して小さくない。南海にテスト入団した野村克也・阪神監督(2000年現在)は、鶴岡に抜擢されて正捕手になり三冠王まで取った。

52歳で自らユニフォームを脱いだ鶴岡は、評論家(NHK解説者など)として関西球界の「相談役」に徹した。

プロ野球に入るまで

1916年(大正5年)7月27日生
母校の五番町小学校は東京や京都で開かれた少年野球大会に出場するほど強かった。小学校卒業後ただちに広島商業(広島の野球名門校)進学。
1931年(昭和6年)広島商業3年の時、春の選抜で優勝(ショートで出場)
東京六大学(法政大学)リーグでは、巧打堅守の名三塁手として鳴らす。

選手生活(実働8年)

1939年、南海ホークス入団。本塁打王(10本)。
1940年、召集
1946年、復員後、監督兼任で復帰。打点王、1リーグ制優勝(MVP)
(この年だけチーム名はグレートリング)
1948年、1リーグ制優勝(MVP)
1951年、パリーグ優勝(MVP)
1952年、引退。
(754試合、2681打数790安打、61本塁打、467打点、打率.295 )

監督生活(23年間、1946年~68年)

優勝11回(1リーグ時代2回、パリーグ優勝9回)
日本シリーズ優勝2回

日本シリーズで4度巨人に敗れる(1951年、52年、53年、55年)
1959年、日本シリーズ初優勝(対巨人、大阪・御堂筋の大パレード)
1964年、日本シリーズ優勝(2回目)
史上最多勝利監督、1773勝(千勝以上監督で勝率1位、6割9厘)

1965年、野球殿堂入り(監督在任中、川上哲治氏と同時)
1991年、スポーツ功労者顕彰、勲四等旭日小綬章
2000年3月7日、死去(満83歳)

(杉浦忠投手)
1959年(昭和34年)、大阪・御堂筋涙の大パレードの主役の一人(捕手野村勝也)である。前年(昭和33年)立教大学(同期、長嶋茂雄)から南海入り、新人王(27勝)。翌59年38勝4敗、防御率1・40、最高殊勲選手。
日本シリーズでは、4連投4連勝(対巨人)。
70年引退、187勝106敗、防御率2.39。
2001年(平成13年)11月11日、急性心筋梗塞のため札幌にて急死、66歳。
参考:1961年(昭和36年)稲尾和久投手(西鉄ライオンズ)42勝14敗。

藤村富美男(ふじむら・ふみお)

阪神タイガース、元選手・監督
初代・ミスタータイガース(永久欠番、背番号 10)

藤村富美男は広島県呉市の出身である。

1916年(大正5年)8月14日生
鶴岡一人と同い年ですぐ隣の小学校に入学、野球を始める。
小学校卒業後、高等小学校に2年間通う。
(鶴岡は小学校卒業後すぐに広島商業に進学)

1931年(昭和6年)大正中学(のち呉港中学と改名)入学
1932年、2年生から主戦投手、卒業の年まで夏・甲子園4回連続出場
(この間、春2回出場、1933年、34年)。
1934年(昭和9年)4年生の時、呉港中学と改名、夏・甲子園優勝投手。
呉の港に深紅の大優勝旗をはためかす。この時の決勝戦で、後の巨人軍監督・川上哲治を3連続3振に討ち取ったのは有名なエピソードである。

1936年(昭和11年)中学卒業と同時に、「大阪野球倶楽部」(現・阪神タイガース)入団、創立時のメンバーの一人となる。投手として入団したが、肩をこわして3塁手に転向。戦後はほとんどマウンドに上がることはなく、打者として大活躍する。藤村のバットは、長さ38インチ(97cm)という長いもので、「物干し竿」と呼ばれた。
(バットの長さは、37インチとする資料もある)

1949年(昭和24年) 33歳
本塁打王(46本)、打点王(142)、打率2位(0.332)
当時としては驚異的な成績であり、チーム成績6位ながら最高殊勲選手(MVP)に選ばれる
1956年(昭和31年)6月24日、甲子園での対広島戦
監督でありながら代打で登場、代打・逆転・サヨナラ・満塁本塁打

通算成績(1558試合)、1936年~1958年(実働17年、兵役約4年)
5648打数、1694安打、871得点、打率、0.300
224本塁打

タイトル
首位打者:1回(1950年)
本塁打王:3回(1936年秋、1949年、1953年)
打点王:5回(1944年、1947年~49年、1953年)
最多安打:2回(1949年、1950年)

表彰
最優秀選手:1回(1949年)
ベストナイン:6回(1947年~1952年)

1974年(昭和49年)野球殿堂入り
1992年(平成4年)5月28日、死去(75歳)

付録:男家族すべて甲子園へ
2000年春・選抜を迎えるにあたって、藤村本人はもちろんのこと、弟、子供2人、孫3人の男家族全てが甲子園経験者になろうとしている。

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